将棋大会に現れた少年

 1978年8月2日、JR八王子駅前の雑居ビルにある「八王子将棋クラブ」は無邪気な熱気に満ちていた。

『第1回夏休み小中学生将棋大会』

 席主である八木下が道場の開設1周年を記念して開催した無料イベントの日であった。

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 カウンターには子供たちの列ができていた。記入された名簿をもとに八木下が手合いをつけていく。子供たちは次から次へとやってきた。数週間前に地元のミニコミ紙に告知を載せたものの、まさかここまで盛況になるとは考えていなかった。ただ、その慌ただしさは言い換えれば充足感でもあった。それは、これまでとは違って、自ら望んで手にした多忙だったからだ。

 1年前、八木下は八王子駅前の雑居ビルに7坪の道場を開設した。開場当初は現実の厳しさを突きつけられた。とりわけ平日は、狭いはずの道場ががらんと広く感じられるほど客が来なかった。ちゃんとした堅い仕事に就いてほしい──両親の声がよみがえった。閑散としたフロアを眺めていると自分は社会の枠からはみ出してしまったのではないだろうかと怖くなった。だが、八木下はもう後戻りはしないと決めていた。手元には、現場で拾い上げた砂まみれの歩兵があった。将棋道場を開いて、それを最後の仕事にする。あの夜、人生を決めたのだ。

 八木下は従来の将棋道場のイメージを覆すような方針を打ち出した。「賭け」と「酒気帯び」の禁止である。それまでの道場といえばタバコの煙が立ち込め、微かに酒の匂いもする、どこか賭場にも似た雰囲気のところが少なくなかった。そのため、34歳の席主が示した異例の方針には年配の男性客から怒りの声があがった。だが、誰でもいつでも将棋を指せる場所をつくりたいと願っていた八木下は頑なに主義を曲げなかった。一時的な不入りは覚悟の上だった。

 やがて少しずつ子供たちが親に連れられてやってくるようになった。女性客の姿も見えるようになった。1年目を終える頃には経営も軌道に乗り始め、道場を少し広めの場所へと移すことができた。八木下はその感謝の意味も込めて、夏休みの真っ只中に小中学生向けの無料イベントを企画したのだった。

 受付の列はしばらく途絶えなかった。名簿が次々に埋まっていく。とても一人一人の顔と名前を一致させることはできなかったが、その中で一瞬、ある少年が書いた名前に目が留まった。「羽生」と書いて「はぶ」と読む。珍しい苗字だった。おそらく初めて道場に来た子なのだろう。以前、見たことがあれば特徴ある姓と合わせて覚えているはずだ。ただ、慌ただしさの中ですぐにそのことは頭から消え去った。まして、その少年がどんな顔をしているのか、どれほどの腕前なのかを記憶にとどめておくことはできなかった。八王子将棋クラブの小中学生将棋大会は盛況のまま幕を閉じた。

 羽生という少年が次に道場へやってきたのはそれから3カ月近く経った、10月のある土曜日のことだった。くりくりと大きな目をした少年は広島東洋カープの赤い野球帽をかぶっていた。入口のところで母親の背中に隠れて、モジモジしながら道場内をうかがっていた。

「ほら、行ってきなさい」

いまだ成らず 羽生善治の譜

鈴木 忠平

文藝春秋

2024年5月27日 発売

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