人生の隙間にいつも将棋があった
巨人軍の王貞治がベーブ・ルースを抜く715号のホームランを放った1976年、その年のクリスマス前夜のことだった。電気配線技師の八木下征男は埼玉県新座市の工事現場に立っていた。目の前には、イブに浮き立つ世間とは対照的な景色が広がっていた。辺りは暗く、イルミネーションなど望むべくもなかった。かろうじて建設業者の仮設事務所から漏れる灯りと月光がうっすらと地面を照らしている程度だった。
八木下は19歳で日立製作所武蔵工場の配線技師となった。その後、現場担当となってからはずっと同じような光景を見続けてきた。昼も夜もほとんど休みなく、建設現場をめぐる日々、何年もそんな暮らしを続けてきた八木下の心は今、限界に達しようとしていた。いつまでも、こんなことをしていてもしょうがない……。30歳を超えた電気技師は人生を変えたいと考えていた。
八木下は1943年、太平洋戦争のさ中に東京・八王子市で生まれた。父は家具職人だったが、終戦後しばらくして定職を失うことになり、一家の暮らしは苦しかった。中学生の頃から新聞配達で家計を助け、中学を卒業すると地元のプラスチック加工会社に就職した。他に選択肢はなかった。生きるために目の前にある仕事をする。それが当たり前だった。日立の技師となってからも、仕事とは明日の生活のためにあるもので、それ以上の意味は持たなかった。
そんな八木下の人生で彩りとなっていたのが将棋だった。10歳になるかならないかの頃、友人に教えられて覚えた。以来振り返ってみれば、生きるためにやらなくてはならないことの隙間にいつも盤駒があった。社会に出てからは時間を見つけて町の将棋道場に通った。社内大会で優勝したこともあった。将棋を指している時だけは全てから解放された。
だが、この数年は道場に行く時間もないほどに忙殺されていた。現場から現場を渡り歩く中、身も心も疲れ果てていた。擦り切れた心はさらに将棋を求め、八木下はいつしかこう思うようになっていた。
自分の将棋道場を開いて暮らしていけたら、どんなにいいだろうか。


