歌舞伎役者と恋に落ちるが、自由はなかった
千代葉がはじめて自分から好きになったのは歌舞伎役者、2代目市川松蔦(しょうちょう)、お座敷で会って以来の一目惚れだった。しかし、常どんは若くて器量の良い鼈甲問屋の音峰宗兵衛という旦那を押し付けてきた。千代葉は気が進まなかったが、別の旦那が落籍しようと目の色を変えてきたので音峰の座敷に出るようになる。2人の噂はあっという間に広がり、舞妓のくせに生意気だと芸者や仲間の舞妓にも無視された。松蔦は東京に帰ってしまい、四面楚歌の千代葉の孤独を埋めたのは音峰だった。音峰には妻があったが千代葉のために離婚し、ゆくゆくは妻にすると約束した。
しかし、幸せは長く続かなかった。音峰と千代葉が仲良く別府に旅行した際、千代葉が鏡袋に入れたまますっかり忘れていた松蔦の写真を音峰に見つかった。気を悪くした音峰はそれきり帰ってしまい、年末にも遊びに来なかった。
明けて1月3日、千代葉が客と飲んでいると音峰が他の座敷にいることがわかった。しかしいつまで経っても千代葉を呼ばない。夜更けに駆けつけてみると他の客といたことを責められ、浮気者と謗(そし)られて縁切りを言い渡された。千代葉はやましいことはないと言ったが聞き入れられず、玉突きに出かける音峰をなすすべもなく見送った。
なんとか身の潔白を証明したいと思った千代葉は指を詰めることを思いついた。
浮気していないと証明するため左手の小指を
以前歌舞伎の「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)」で恋人に誤解された菊野という女が指を詰めるシーンを思い出したからだった。この時の気持ちを後に「唯(ただ)、自分の自尊心を傷(きず)つけられた――、人格を見損なわれた――、無い罪を被せられた――、と云う憤激と一途に欺かれた、もてあそばれたと云う口惜しさに常識も分別もめちゃくちゃに乱れてしまって(中略)富田屋の千代葉は舞子でも斯(こ)んなものだと世間に示してやりたい……(中略)と幼稚な子供心にも憤怒の情を抑えかねました」(『照葉懺悔』)と記している。