この言葉の裏には、冷酷な現実が透けて見える。正式な女中には賃金を払う。だが、「頼まれて仕方なく引き取った」お信には払わない、あるいは雀の涙ほどしか渡さない。そういう区別である。
血縁もなく、頼る者もいない。「仕方なく」引き取ってやったのだから、働いて当然……冨田夫婦の証言からは、そんな傲慢さすら漂ってくる。要するに、身寄りのない子供を善意の仮面の下で、実質的に無償の労働力として使っていたということだ。
もちろん、明治期の家制度においては、奉公や“引き取り”がそのまま労働と結びつくのは一般的な慣行だった。現代的な児童労働の概念をそのまま当てはめることはできない。とはいえ、史料からはどこかやりきれない想いを感じてしまう。
「かわいそうに23歳で亡くなった」と淡々と語るツネ
ともあれ、この無名の少女・お信の存在を抜きにしては、八雲の初期像はまったく立ち上がらない。冨田旅館に滞在していた頃の八雲が、もっとも心を通わせたのはセツでも県知事の娘でもない。事蹟もあまり残らぬ少女・お信である。
桑原羊次郎『松江に於ける八雲の私生活』(山陰新報社 1953年)の中で、ツネに話を聞いた桑原は、最初からこう質問している。
「旅館滞在中にお信さんという女中がいて、八雲先生の世話をなし、八雲先生はお信さんの眼病を自費で療治せしめたと聞きますが、そのお信さんはどんな来歴の人でしたか、まだ存生ですか」
桑原がツネに話を聞いたのは1940年6月のこと。八雲が松江を去ってから半世紀近く経っているが、まだ当時を知る人々が生きていた時代である。
この質問の仕方から分かるのは、「冨田旅館で八雲の世話をしていたのはお信」「八雲がお信の眼病を自費で治療した」という話が、松江ではほぼ常識として語り継がれていたということだ。誰もがなんとなく知っている、八雲と少女をめぐる有名なエピソードだったのである。
これに対するツネの答えは、淡々としていて、むしろその無感情さが残酷だ。