「お信は出雲国能義郡広瀬町の池田というものの子でありましたが、両親に早くより死別し、その祖母に当たる人がお信の7歳の時にその弟と二人を連れて、少々のゆかりを頼って私方に参り、お信は女中代わりとして手伝いと致しまして、八雲先生の見えた時お信は15、6歳の時でした。先生のお世話は万事私とお信が致しました。先生は大層お信を可愛がって英語をお教えなさいました。そしてお信はかわいそうに23歳で亡くなりました」
旅館の夫婦は、お信を養女にしていた
7歳で祖母に連れられ、弟と共に「少々のゆかり」を頼って流れ着いた少女。両親は既に死に、頼る先もない。そんな子供を「女中代わり」として働かせ、23歳で死ぬまでその境遇は変わらなかった。ツネはそれを、まるで天気の話でもするかのように語っている。
確かに当時の感覚では、身寄りのない子供を引き取って食べさせてやったのだから善行だ、という理屈もあっただろう。だが、その「善意」の実態は、幼い頃から死ぬまで無償で働かせ続けることだったのだ。
さらに残酷なのは、冨田夫婦がのちにお信を養女にしていることである。
一見すると、これは彼女を家族として迎え入れた温情のように聞こえる。だが、当時の社会習慣を考えれば、その意味は全く違う。
養女にするということは、法的に「家の者」として固定することだ。つまり、簡単には逃げ出せなくする。労働力として完全に囲い込む手段でもあったのである。
「女中代わり」として7歳から働かせ、やがて養女の名目で縛りつけ、23歳で死ぬまで働かせ続ける。そして死後、取材に応じた老婆は「かわいそうに亡くなりました」と、まるでひとごとのように語るのだ。
まさに、お信がどういう境遇であったかが想像できる。そして、八雲が深く同情した理由もわかる。
八雲が治療費を出し、霊験を願って大金を納めた
八雲自身、幼い頃に両親が離婚し、大叔母に引き取られて育った。愛情というよりは義務として養育され、孤独な少年時代を送った経験がある。さらに、アメリカでの極貧生活、新聞記者時代に見てきた社会の底辺……。八雲は、弱者がどう搾取されるかを身をもって知っていた。