映画監督の原田眞人氏が12月8日死去した。76歳だった。原田監督は今年4月、評論家の芝山幹郎氏と「文藝春秋」で対談し、ロサンゼルスに渡って映画業界で働いていた70年代のアメリカ映画について語り合っていた。その冒頭を紹介します。(初出:2025年7月号)

◆◆◆

スコセッシが劇場をうろうろしていた

 芝山 今回は編集部からの提案で、「70年代のアメリカ映画について語り合う」というのがテーマなんです。というのも、1978年の『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ監督)に登場する鉄鋼労働者の主人公たちが、去年から買収問題で話題の「USスチール」とおぼしき製鉄所の作業員なんですね。舞台はペンシルベニアの田舎町クレアトン。いわば「普通のアメリカ」、「正直で鷹揚なアメリカ」の心の故郷みたいなところです。一方で、トランプ大統領の右腕であるヴァンス副大統領が自身の青春を描いた回想録『ヒルビリー・エレジー』でも描かれたラストベルトの労働者の町でもある。つまり、この時代の映画には、その後にやってくる新自由主義の波に翻弄されて、理想も希望も洗い流されてしまう2000年代以降の「分断のアメリカ」を理解するのに欠かせない原点があるのではないか、というのが編集部の見立てですね。

 まあ、この見立てが的を射ているかどうかはちょっとわかりませんが(笑)、私も70年代のアメリカ映画には親しんできましたし、あの時代の映画に精通しておられる原田監督とぜひお話ししてみたいと思って、今日は参りました。原田さんは70年代前半、すでにアメリカで映画の仕事をされていたんですよね。

ADVERTISEMENT

 原田 はい。73年に渡米し、70年代のほとんどをロサンゼルスで過ごしました。なので、70年代の映画は自分の血肉になっています。

 当時は「ブラックスプロイテーション」というジャンルが流行していました。黒人俳優や黒人監督が黒人向けに作る大衆映画ですね。僕も“これは黒人街に行って見なきゃしょうがないだろう”と思って、何回か行きました。当時は日本人なんてほとんどいませんから、奇異の目で見られることはありましたが、攻撃はされなかった。そういうところに、あの時代の豊かさがあったなと思います。まだ分断はなかった。

文藝春秋の対談に登場した原田眞人監督(2025年4月) ©文藝春秋

 観客と製作側の距離も近かったんです。『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督、76年)の公開初日は忘れられません。ロサンゼルスのウエストウッドビレッジに住んでいたんですが、ここは一流のロードショー館が10軒以上あるところで、プラザという老舗の劇場でやっていました。行ってみるとスコセッシが、観客の様子を窺いながら、ロビーをうろうろしてるんですよ。

 芝山 いい時代ですね。作り手と観客の間の垣根が低い。貧富の差よりも、「面白いことと面白くないことの差」を重視する人が多かった。

 原田 スコセッシは当時33歳。フランシス・フォード・コッポラも『ゴッドファーザー』(72年)を撮った時は32歳ですから、当時はスタジオの製作側が若い人たちにどんどん映画を作らせていたんですよ。映画漬けの日々を送っている若者たちを次々と抜擢した。熱量は非常に高い。だからこそ、あの時代に豊穣なものが生まれたのだと思います。

 教育環境も充実していました。僕は、シャーウッド・オークス・エクスペリメンタル・カレッジという『エイリアン』(リドリー・スコット監督、79年)の脚本を書いたロナルド・シャセットの弟ゲイリー・シャセットが始めた映画講座に通いました。こぢんまりとした学校でしたが中身は豪華だった。最初に受けたのが「ウディ・アレンセミナー」という講座で、毎週1回、ゲストを呼んでウディ・アレンの作品を見るんです。本人こそ来ないものの、彼の元妻のルイーズ・ラサーとか、そういう人が来ていました。

『タクシードライバー』の主人公トラヴィスを演じたデ・ニーロは役作りのため数週間運転手として働いた ⒸCourtesy Everett Collection/amanaimages

 次は「ジョン・カサヴェテスセミナー」。その後は「クラシック・ディレクターセミナー」。次が「ニュー・ディレクターセミナー」で、スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカス、ブライアン・デ・パルマが来た。その後は脚本家のセミナー。クラシックとニューの両方が来て、エドワード・アンハルトからポール・シュレイダーやジョン・ミリアスまで。ここでジョン・ミリアスと仲良くなって、よく食事に行く間柄になりました。