「差別により人間以下の扱いを20年以上受けています」――その攻撃的なファイトスタイルから「ハリケーン」と呼ばれたアメリカの黒人ボクサーがいる。ルービン・カーター。世界タイトルマッチにも挑戦したことのある彼は28歳のとき、突如、白人3人を殺害した犯人として逮捕される。
目撃証言は曖昧で物的証拠もなかったにもかかわらず、裁判で下った判決は終身刑。しかし、カーターは獄中でも無実を訴え続け、20年後ついに自由の身となる。予断と偏見が生んだ冤罪の恐怖と、リング外でも決して己の意志を曲げなかった男の長き闘いを、新刊『世界で起きた恐怖の冤罪ミステリー35』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
◆◆◆
不良だった黒人少年→プロボクサーに
1937年、カーターは人種差別の激しいニュージャージー州パターソンで生まれた。
11歳のとき、小児性愛者の白人男性に犯されそうになった友人を助けるため、男性に暴行を働く。黒人を含む有色人種が相手であれば、たとえ強姦・殺人などの重大犯罪を犯しても比較的軽い刑あるいは無罪になった時代。軽い吃音を患っていたカーターは男に「やめろ」と上手く口に出せず、その代わりに手を出した。しかし、大人の白人男性には腕力で勝てず、ほどなくつかまり高さ20メートルの滝の底に落とされそうになる。
そこで、カーターは護身用に所持していたナイフで男性を刺して逃走。完全な正当防衛だったが、警察はその日のうちに彼を暴行罪で逮捕、被害男性の偽りの証言を鵜呑みにした自白調書を作成し、結果、裁判所は懲役7年の判決を下す。
11歳の少年には重すぎる量刑だった。
刑期が6年を過ぎた1954年に少年院から脱走し、アメリカ陸軍に入隊。サウスカロライナ州フォートジャクソンで基礎訓練を終えた後、西ドイツへ。そこでボクシングを覚え、ライトウェルター級で戦う。1956年に除隊し、故郷のパターソンへ戻ったものの、2件の強盗を働き、さらに少年院の残りの刑期が加算され刑務所へ収監。
1961年9月に釈放となった後、プロボクサーになり、リングネームとして「ハリケーン」を名乗り始める。ハリケーンのごとく現れ対戦相手を次から次へと倒す姿に観客が熱狂したことが名前の由来だ。
