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男の子は「大きくなった時に親を批判してくるだろうな」

――女の子と男の子というのは、やはり少し違うものでしょうか。

やべ そうですね。僕自身が6人兄弟で下に1人だけ妹がいるんですが、家族の中に女の子がほとんどいなかった。だから、女の子が生まれた時はもう夢中になったわけですよ。やっぱり男の子はね、大きくなった時に親を批判してくるだろうな、という気がしましたね。ライバルみたいになるかなあって。

 

――ライバル、ですか。

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やべ 2人目は男の子だと分かった時から思っていました。例えば、名前ね。どんな名前を付けても、いつかは気に入らなくなるだろうな、と。だけど付けないわけにもいかないから、取りあえず「太郎」って名付けたんです。

――それが、名前の由来なんですね!

やべ 東村山市役所に出生届を出しに行くじゃないですか。そうすると見本の名前がね、 「東村山太郎」だったんですよ(笑)。だから、僕は字解きを聞かれた時に「見本通りです」って2回くらい言ったのをよく覚えていますね。もし気に入らなくなったら頭に一字足して、何太郎でも、自分らしい名前にしたらいいなと考えて付けた名前です。でも、いまだに太郎のままだな(笑)。

――いま、太郎さんとの関係は「ライバル」という感じがしますか?

やべ あんまり、そうでもないですよね。太郎のほうは、表現ですごく自由にやっているような気がします。僕に対しては、お笑いをやるという相談もなかったし。『大家さんと僕』を僕が読んだ時、太郎に何て言ったかよく覚えていないけど。

『大家さんと僕』

―― 太郎さんはインタビューで「『これはすごい、脱力感がいいねえ』みたいなことを言ってましたね」(「kodomoe」2018年6月号)と語っています。

やべ そうだったかな。小学1年~4年まで太郎が書いていた「たろうしんぶん」が、今やっていることに一番近いんじゃないかと思いますよ。家族のことや友だちのこと、旅行で訪れた場所のことなんかを書いています。

――ちゃんと「はっこう(たろうしゃ)」となっています。特集があって、「'84 やべけ 10だいニュース」「きちができた」……。イラストもたくさん入っていて、楽しいですね。

やべ 僕は、一般的な「子育て」って何もしていないんですよ。どっちかと言うと「親育て」の時間でした。上京してからは、行き詰ってしまってとても生きにくかったんです。そういう時に子どもが生まれて、救われたような感じがあって。幼子を眺めながら、もう一回自分を生き直したいと思いました。

 そうそう、これは太郎が6歳の時に作った紙芝居「めちゃくちゃのだいぼうけん」。

 

――ちょっと長新太さんのような味わいですね。やべさんは、紙芝居にまつわる講演やワークショップに取り組まれているんですよね?

やべ そうです。明日も近所の小学校へ行って、紙芝居づくりのワークショップをやります。日本生まれの紙芝居を広める活動を応援するために、国際協力のNGO「ラオスのこども」「シャンティ国際ボランティア会」(SVA)の要請で、1995年からラオスへ8回、それから、アフガニスタン、カンボジア、ミャンマー(ビルマ)難民キャンプへの訪問と絵本・紙芝居制作の研修をしました。「紙芝居文化推進協議会」という団体があって、今年で第19回になる「手づくり紙芝居コンクール」の応募をしています。全国そして海外、子どもたちからもたくさんの応募があるんですよ。現在、長野ヒデ子さんが会長で、僕と宮崎二美枝さんが副会長です。

 紙芝居と絵本って、かなり違うんです。絵本というのは、自分の中の子どもというか、個性を出せる。個の読者に向かって描いているようなところがあって、読者は好きな絵本に出会えればいいし、絵本の世界観やストーリーに入りこんでいくものですよね。

 紙芝居は、誰かが演じてみんなで見るじゃないですか。そうすると個というよりは、みんなで同じ気持ちになって楽しむ共感のメディアだと思うんです。僕はそんな風にみんなで一緒に楽しむことも、すごく好きなんですよ。太郎も、自分の漫画のことをコマが全部同じ大きさだし、紙芝居みたいなところがあると、話していたことがありますね。

#2につづく)

 

写真=末永裕樹/文藝春秋

やべ・みつのり/1942年、岡山県出身。1977年より造形教室「ハラッパ」を16年間主宰。現在は、各地で、造形あそびや、紙芝居づくりのワークショップを開いている。絵本に『かばさん』『ふたごのまるまるちゃん』『あかいろくんとびだす』『色セロハンあそび ぼくはうみ わたしはひかり』などがある。紙芝居も多数手がけ、『これはジャックのたてたいえ』『でてきた なあーんだ?』『かわださん』『昭和の窓』などの作品がある。