『かばさん』、『あかいろくんとびだす』などの絵本と、たくさんの紙芝居を作ってきたやべみつのりさん。広島の自動車会社でデザイナーとして働いていた頃、丸善でブルーノ・ムナーリの絵本と出会い、「こういう面白い世界があるのか」と驚いたそうです。23歳の時に上京してから絵本、そして紙芝居作家としてデビューするまでには、息子・矢部太郎さん(お笑いコンビ「カラテカ」)にとっての“大家さん”とも言えるような、恩人たちとの出会いがありました。

やべみつのりさん

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絵本ではなく街頭紙芝居を楽しんだ子ども時代

――やべさんが子どもの頃、絵本は身の回りにありましたか?

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やべ 僕は昭和17年(1942年)、そろそろ戦争が激しくなるという時期の生まれです。子どもの頃に絵本と出会ったという記憶はないんですよね。その時代、普通の家にはなかったんじゃないですか。ラジオはあったけどそんなに聴いていなかったから、文化的な楽しみって何もなかったんです。 僕は、倉敷の連島(つらじま)という町の小さなお寺で子どもの頃を過ごしました。山門に街頭紙芝居のおじさんが来ていたんですよ。そうすると、街角の劇場みたいになる。家の入口でやってくれるんです(笑)。

――いつでも、好きな時に見られたんですね。

東村山市内の仕事部屋

やべ 僕らの頃は、1回見るのが5円だったんですよ。すごく貧乏な家だったんですけど、5円だけには何の不自由もなかったんです。答えは分かりますかね。ヒントはお寺ですけど(笑)。

――ひょっとして……。

やべ そう。お寺の賽銭箱にいっぱい5円玉が入っているんですよ(笑)。だからいつも手作りの針金で釣っていたんです。もちろん、賽銭箱というのはお金をとりにくいようにしてあるんですよ。だから長い針金を「し」の字にして、釣り上げていました。いまだにその時のバチが当たっているのかもしれませんが(笑)。

 僕は6人兄弟の3男で、やせていて小さかったせいで「みっちん」と言われ、夏は兄たちにくっついて大人用の自転車を横乗りして岡山の三大河川の一つ、高梁(たかはし)川へ行きました。霞橋という大きな橋の下あたりで、よく遊んだものです。橋脚のあたりは深くなっていて足が届かず、おぼれかけたこともありました。山や川で思いっきり遊んだ体験は、しっかり身体の中に残っています。

自動車会社の宣伝部で印刷原稿のデザインをしていた

――岡山を出て、東京へ行ってみたいと思ったきっかけは?

やべ 僕が就職したころは東洋工業と言っていたんですけど、マツダという自動車会社の宣伝部で、新聞広告やポスター、カタログなどの印刷原稿のデザインをしていました。その頃、詩人の鈴木志郎康さん、画家の悦子さん(後年、作家・木葉井悦子として活躍)ご夫妻とご縁があって仲良くさせていただくようになって。お二人から「矢部くん、東京に行こうよ」と勧められて、東京に行ってしまいました。引っ越す前に野沢の下宿先を探してくれた人もいて、何とかイラストレーターとして生きていけるかなあと、簡単に思ったんですけど。

 

――イラストやデザインには、いつ頃から興味を持ちましたか。

やべ 岡山工業高校の美術工芸科というところがあって、僕はデザインコースに入ってちょっと勉強しました。工業デザインのようなこともほんの少し教わったので、東洋工業からも求人があったんです。日本一初任給が高かったんですよ。僕は家が貧乏だったから「お金をたくさんもらえるところに行きたい!」という理由だけで受けたら、受かっちゃったんですよね。まず、宣伝部の制作係というところに配属されたんですよ。そこで、お金をもらいながらデザインやイラストについて、本格的に勉強しました。