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上京したての頃、お世話になった庄司薫さん

――東京では、最初何をしようかなと考えていたんですか?

やべ もう昔の話ですけど、僕は福田章二(庄司薫)さんともちょっとご縁があったんですよ。上京したての頃、福田さんにはすごくお世話になりました。広島で働いていた宣伝部という部署は、昼間外に出るのがわりと自由だったんです。時間がある時に、喫茶店で「いたずらっ子たちよ永遠なれ」という福田さんのラジオドラマを聴いて、僕はとても感動しました。その話の中には大きなクジラが出てきたんですよね。僕は実際に大きなクジラの絵を描いて、「できたら作者に届けてほしい」 と書き添えてNHKに送ったんです。

 

――突然、クジラの絵を。

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やべ そうです。すると、福田さんから手紙をいただいてね。「東京に来ることがあったら、僕のところに連絡するように」と書いてあったから、東京に来て、まず連絡したんですよ。なんと会ってくれて。顔が広いから、色々な知り合いの方に「こういうのがいるから、なんか仕事やってよ」という感じで紹介してくださって、小さな仕事をもらっていました。干支の猿を描いたり(笑)。

僕にとっての「大家さん」のような人との出会い

――やべさんにとって、作品が世の中に出るようになった転機は何だったのでしょう。

やべ それはね、山崎先生との出会いですね。僕が東京でどう生きていいか分からなくなっていた頃、「フラフラしてるなら、この先生のところにちょっと行ってみないか」と友人に誘われたんですよ。山崎先生は、国家公務員のために、共済組合連合会が1963年、試験的に開所した「東京保育所」の所長さんでした。保育所は六本木の檜町公園の上にあって、初めて山崎先生にお会いした日、僕が「子どもに絵を教えることならできます」ということを言ったら「きっと子どもは、あなたに何かを教えてくれるでしょう。来たかったら明日からでもどうぞ」と言って迎えてくれたんですね。

――そして、大都会の保育所で働き始めたんですね。

やべ  六本木には防衛庁があったし、霞が関にも近くて、職員の人たちが子どもを預けていたんです。ここの保育所で5年か6年くらい、お世話になりました。山崎先生が退職されると聞いて、何かお礼をしたかったんですよ。「やまざきせんせい」というB2版の大型紙芝居を作りました。僕は山崎先生から、子どもと付き合うというのはどういうことか、という基本みたいなことを教わった気がしています。

「やまざきせんせい」(「絵本ジャーナル PeeBoo」、1996年)

 普通の紙芝居の倍以上の大きさで、22枚を必死で描きました。それを絵本作家の田畑精一さんが見てくださる機会があって、「ああ、君は出版の仕事をしなきゃいけないよ」と言われたんです。田畑さんが童心社へ紹介してくれたことが、僕の出版紙芝居の仕事につながりました。ふと思うのは、山崎先生って僕にとっては、太郎にとっての大家さんみたいな人なんじゃないかと。

――まさに、恩人のような……。

やべ そうですね。2人とも、なぜか女性なんですよね。僕は、太郎の大家さんにお目にかかったことも、お宅へお邪魔したこともないですけど、何か大切なことをハッと気付かせてくださった方なんだろうと思うんです。