ヴィオラ奏者だった母も「別居婚」だった
それを聞いて、日本での別居婚の扱われ方に対する違和感から解かれた気がした。私もたとえ物理的に一緒に暮らすことができなくても、その理由が仕事であろうとなかろうと、お互いの人間としての生き方を敬い続ける結婚生活は、まったく可能なことだと思っていたのだ。
思い起こせば、私の母も別居婚であった。最初の夫と死別し、再婚したが、再婚相手の勤務先がサウジアラビアだったため、ヴィオラ奏者として働くことを生きがいとしていた母は別居婚という選択をせざるを得なかった。当時は国際電話や手紙以外に通信手段はなく、互いの移動もままならない生活に限界を感じたのか、結局2年後に別れてしまった。最後まで母は、オーケストラを辞めてその相手と一緒に暮らすという選択をしなかったのである。
すると周りからは「結婚したのになぜ仕事を辞めて一緒にサウジアラビアへ行かなかったの?」「妻であれば夫に付いていくべきだ。演奏は趣味で続ければいい」とさんざん叩かれたという。母にとって自分の一部である音楽を捨ててまで結婚を優先する勇気はなかったのだろう。ただ、それを理解してくれる人は周りにはいなかった。昭和40年代半ばの話である。
ちなみに母は、夫とは同居しなかったものの、樺太生まれで女手一つで息子を育てた夫の母とは一緒に暮らしていた。私と妹は「おばあちゃん」と呼んで深く慕って育った。
おばあちゃんは母と自分の息子が離婚をすると、「ご縁が途絶えたので、もう厄介になるわけにはいきません」と姿を消したが、母は必死で探し出して連れ戻し、彼女が2年後に亡くなるまで共に暮らした。母にとって家族とは、血縁でも義理でも戸籍でもなく、“家族でいたいという気持ちで繫がるもの”を意味していた。

