いずれにせよ、織田信長の重臣になって以降も、秀吉の父親は史料に登場しないし、秀吉が北条氏直への書状で「若輩のときに孤児になった」と記しているので、秀吉の幼少期に没したことは間違いない。ただ、秀吉自身がまったく父親について回顧していないのは、次のような特殊な事情もあったと考えられる。
「天下人になったことで、実父を語れなくなってしまった」
『関白任官記』は秀吉が関白に就任したとき御伽衆の大村由己に命じて書かせたもの。そこには「秀吉の母は無実の罪で尾張に流された萩中納言の娘で、朝廷に宮仕えをして帰郷した後まもなく、秀吉を生んだ」とある。
つまり、秀吉が天皇の御落胤であることを暗示しているのだ。百姓から関白(朝廷最高職)に昇った秀吉が、自分の出自を飾る必要に迫られて書かせたのだろう。つまり天下人になったことで、秀吉は実父を語れなくなってしまったのだ。
『関白任官記』が発端となり、実父=天皇説は具体的になり、松永貞徳(江戸前期の俳人・歌人・歌学者)編著の『戴恩記』では「秀吉は、大政所(秀吉の母)が天皇に近づいてできた子」と明記されているし、天野信景(江戸中期の尾張藩士)著『塩尻』(随筆)では実父を後奈良天皇としている。
また、大国隆正(江戸末期の国学者)著『嚶々筆語』では正親町天皇だと特定している。この秀吉の実父=天皇説については、完全に可能性はゼロとは言い切れないが、さすがに実父=日輪説になると、荒唐無稽としか言いようがない。
「生まれながらにして歯が生えていた」怪奇性が加わる父親日輪説
この説は天正18年(1590)以降、秀吉が朝鮮、高山国(台湾)、フィリピン、インドなどにあてて入貢を求めた国書に記されたもの。この中で秀吉は、「妊娠中の母が瑞夢を見た夜、部屋が昼間のように明るくなった。驚いた人びとが占いを立てたところ、胎内の子は四海に覇をとなえるという結果が出た」と自慢しているのだ。
この父親日輪説は『甫庵太閤記』(小瀬甫庵著)に受け継がれ、そこには「秀吉の母があるとき、日輪が体に入る夢をみた。こうして懐妊して生まれたので、童名を日吉丸という」(檜谷昭彦・江本裕校注『新日本古典文学大系60 太閤記』岩波書店)と明記された。
このように、日輪が体内に飛び込む夢を見て、秀吉の母が秀吉を妊娠したという逸話へと発展したのだ。さらに江戸後期の『絵本太閤記』(読本)になると、秀吉が生まれたときに屋外に霊星が現れたとか、生まれながらにして歯が生えていたなど、父親日輪説に怪奇性が加わっていく。
秀吉が日吉権現の申し子だとする説もある。大政所が日吉権現に祈って得たのが秀吉で、証拠として秀吉の顔が日吉権現のお使いである猿に似ていること、幼名を日吉丸と称したこと、誕生日が天文5年(1536)正月元日で、この年が申年だったことがあげられている。ただ、現在の研究では秀吉の誕生日は天文6年2月6日が有力視されている。
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