1月4日から放送が始まったNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』。“長生きしていれば豊臣家の天下は安泰だった”とまで言わしめた天下一の補佐役、豊臣秀吉の弟・秀長が主人公となっている。
しかし、秀長に関する一次史料は非常に少なく、軍記物語にもあまり詳しく記されていないという。いったい、豊臣秀吉と秀長はどのような絆で結ばれていたのか。謎に包まれた豊臣一族の関係とは――。
ここでは、豊臣兄弟の絆に加え、二人を支えた豊臣一族の絆と愛憎を描いた、歴史作家・河合敦氏の著書『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)より一部を抜粋して紹介する。(全3回の1回目/2回目に続く)
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豊臣秀吉はいつどこで生まれたか、実はまったくわかっていない
豊臣秀吉は、いつどこで生まれたか、実はまったくわかっていない。織田信長に仕えた時期も特定できない。有名な少年時代のエピソードや信長の草履取りの話は、一次史料(当時の日記や書状など)ではなく、後の編纂物(二次史料)に載るものなのだ。
歴史上に秀吉が登場するのは、永禄8年(1565)11月2日(坪内喜大郎宛判物)まで待たなくてはならない。このときすでに秀吉は、30歳近くになっている。だからこれから語る秀吉の幼少年期は、各種ある太閤記などの伝記類や軍記物などに載る二次史料が元になっている。
秀吉が生まれたのは尾張国だとされる。しかし、イエズス会宣教師のルイス・フロイスは美濃国生まれだと語っているし、近江国だとする編纂物もある。ただ、最も多いのは尾張国愛智郡。けれど村名については中村、中中村、ミスノ郷など諸説ある。とりあえずは中村としておく。
「父親もよくわかっていない」秀吉の実父は誰なのか
特定されないのは、生誕地だけではない。父親もよくわかっていない。大別すると、木下弥右衛門説と竹阿弥説に分かれるが、ほかにも中村弥右衛門、弥助とする編纂物も存在する。
ここでは実父を木下弥右衛門、継父を竹阿弥と考えておく。ただ、実父はときおり合戦に引き出される百姓身分というのが有力なので、おそらく木下姓は名乗っていなかったと思われる。
比較的史料価値の高い川角三郎右衛門が記した『太閤記』(以後、『川角太閤記』と表記)には、小田原北条氏を滅ぼした秀吉が、鎌倉の鶴岡八幡宮に出向いて源頼朝座像と対面したさい、木像に向かって「俺もあなたも天下をとった。だから友達だ。しかしあなたは清和源氏の嫡流、天下を取って当然の家柄。それに比べてこの俺は、氏も系図もない草刈り童から身を起こしたのだ」と自慢げに語ったと記されている。たぶんこれは、事実なのだろう。
