ニュースがお茶の間に近くなった。市民ひとりひとりが社会問題や政治に関心を持つようになった。ニュースが視聴者に近くなった分、番組は権力と遠い位置にいた。だからこそ、政治家に率直にものを言い、おかしいことはおかしいと声を上げた。政治も社会問題も野球もひまネタも同じように面白く、やさしく伝えた。そこから社会が透けて見えた。
「視聴者のため」を考えるのは…
「視聴者のため」を考えるのは、視聴率を取るためだけでない。さまざまな問題に判断を下すためには情報を得なければならない。その知る権利に応える意味でもある。
久米さんについて語るとき、「番組最終回でビールを飲みほした」「中学生でもわかるニュース」「ニュースにエンターテインメント性を持ち込んだ」と評されるが、それは表層的なものでしかない。
スタジオで政治家と丁々発止し、歯に衣着せぬコメントをする在りし日の久米さんの映像を観返している。誰もが自由にものを言えること、この国を戦争に向かわせないようにすること。毎日番組で自由闊達にふるまうことで、ともすると危うい方向に走ってしまうテレビや社会を踏みとどまらせているかのように見えて仕方がない。
では、いまテレビは自由か? キャスターは意見を表明しているか? 記者やディレクターは政治家や力の強いものに忖度していないか? 金太郎飴みたいな同じような番組を作っていないか?
久米さんが逝って悲しい。
それだけではない。
久米さんのような存在がいなくなった社会を考えると、うすら恐ろしく、背筋が冷たくなる。
だからこそ、渡されたバトンをしっかり握り、次の世代に渡さなければならない。戦後最も保守的な政権が総選挙を打とうという今、改めて強く思う。
権力から遠い場所で、自由に表現すること。
権力にまっすぐ、意見を申すこと。
戦争につながっていかないよう、目を凝らすこと。
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山﨑氏の新刊『償い 綾瀬女子高校生コンクリート詰め殺人事件 6人の加害少年を追って』は、発売即重版となるなど大きな話題を呼んでいます。本書では、山﨑氏が「ニュースステーション」ディレクター時代に、加害少年や家族のインタビューを手掛けた際の経緯なども詳しく綴られている。「償い」とは何なのか――事件や加害少年に迫った渾身のノンフィクションです。
