制作会社から派遣されているボクの力はちっぽけなものだったが、それでもプロデューサーを説得しようともがいた。だが、放送の5分前になって死に顔をカットせざるをえなかった。

VTRが終わり、久米さんがコメントしたこと

 VTRが終わり、スタジオに。久米さんはコメントした。

「内輪の話してもしょうがないんですけど、いまご覧いただいたVTRのなかには、制作したディレクターの強い意志で、棺の中の死刑囚の死に顔のかなりはっきり映ったカットがあったんですが、プロデューサーの判断で残酷すぎるということで外したんですが、これはプロデューサー判断が正しいんだろうと僕は思うんですが、実はその顔は確かに笑っていて、ボクは(先月)27日に執行されたという新聞記事を読んで『ああ、死刑執行されたんだ』と思ったんですけど、あの死に顔を見て、本当に執行されたんだと本当に思いましたね、実感しました」

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 驚いた。

 台本に書かれていなかったコメントだった。すべて久米さんのアドリブだった。試写後に死に顔を使った理由を説明していたが、その思いを代弁してくれたのだ。

 反省会で久米さんは言った。

「放送前のVTRに死に顔があったことを、視聴者は知る権利があると思ってコメントした」

 ボクに配慮したのではない。視聴者のことを思ってのことだった。

 久米宏さん、そして『ニュースステーション』の神髄はこの言葉に現れていると思う。番組が生まれる前、ニュースといえば、無味乾燥で堅苦しく、ありもしない中立を装うものだった。制作者の息遣いを感じるドキュメンタリーやルポルタージュとは違っていた。

『ニュースステーション』はそうしたニュースを、面白く、わかりやすく伝えようとした。プロの記者がサラリーマンに向けてつくられていたニュースを、多くの国民に開放したといえる。中世に宗教や貴族が独占していた知識を、市民の発展や印刷技術の発明が開放したように。