芥川賞候補にもなったデビュー作でスイス人留学生と盲目女性との恋愛を描いた著者が、今度は「手話」をテーマにした小説を書いたと聞いて大いに関心を覚えた。さらに、著者自身が「手話通訳者を目指し手話を学んでいる」と知り驚いた。
しかし考えてみると、ろう者が昔から使っている「日本手話」は、日本語とは異なる文法を持つ独立した言語である。音声日本語を介さず、ろう者から直接手話を学ぶに当たっては(小説を書くほどに日本語に堪能である著者は別格としても)、日本人と外国人との間に我々が思うほどの差はないのかもしれない。
とはいえ、主人公である「僕」(40年近く日本で暮らし、大学で国文学を教えるベルギー人)は単なる手話学習者ではない。駆け出しながら、地域でろう者の日常生活を支援する手話通訳者なのだ。これまで小説やドラマで、法廷などで活躍する「手話通訳士」が描かれたことはあっても(僭越ではあるが拙著『デフ・ヴォイス』の主人公もその一人)、「地域の登録手話通訳者」を主人公とした小説は初めてなのではないか。
本作では、それら手話通訳者の活動内容や、「日本手話」と「日本語対応手話」(音声日本語の文法と語順に合わせた手指表現)との違い、あるいはろう者の世界の奥深さなどにも言及していてぬかりはない。だからと言って、説教臭い物語かと身構える必要もない。基本にあるのは、還暦を迎えた「僕」と、オンライン手話講座で知り合った梓という40代でER(救命救急)看護師をしている女性との大人の恋愛物語である。
梓にはある「秘密」が隠されている。注意深い読者であれば早い段階でその秘密の一端には気づくかもしれないが、それはあくまで一端でしかなく、その奥にある彼女が抱えてきたものの重さを知った時、「僕」は怯んでしまう。
その怯みを克服し、「僕」と梓の距離は近づいていくのだが、終盤にきて、2人の関係にひびが入る出来事が生じる。その舞台として、昨年11月に開催されたろう者の国際的スポーツ祭典、デフリンピックが設定されていることにも驚かされた。なぜなら、この小説が書かれている時点(刊行は2025年10月)はまだ開催前であり、著者は全くの想像でその描写をしているのだ。実際の経過や結果を知る者としては困惑も覚えたが、クライマックスの場面に至り、2人の再会の場としてそこを選んだ必然があったのだと合点がいった。
ラストで、「人間の運命とは、意外と幅広いその中間で不確かに蛇行する川のようなものなのかも知れない」「梓が指先に託した結論は、そんな摂理を見事に裏づける類のものだった」と書かれるその「言葉」は、最後まで明かされることはない。それがどんなものだったのか、小説の中で描かれた手話をヒントに探ってみるのもいいかもしれない。
David Zoppetti/1962年生まれ、スイス出身。高校時代から独学で日本語を学び、86年から日本在住。96年「いちげんさん」ですばる文学賞を受賞してデビュー。同作が芥川賞候補に。ほかの著書に『アレグリア』、『旅日記』、『奇跡のタッチ』など多数。
まるやままさき/1961年生まれ、東京都出身。小説家。『デフ・ヴォイス』シリーズで人気を博す。ほかに『青い鳥、飛んだ』など。
