「豊臣家の包丁人」という切り口
──磯田さんは木下さんの作品をどうご覧になりましたか。
磯田 タイトル見てびっくりしたんですよ。「豊臣家の包丁人」、すごい切り口で来るな。これは手に取りたい。発売前に本が送られてきて、包丁人って誰だ? まさか彼か、と思ったら、大角与左衛門。
大角って、江戸時代の武士のあいだでは悪者の代表なわけですよ。『駿河土産』という話が残っていて、それによると、少し意訳しますが、「与左衛門という男がいた。秀吉の台所で魚や鳥を洗いながら下男をやっていた。この人は豊臣に取り立てられて、料理人から、料理人の頭にまでなった。ところが、豊臣家が大坂城で滅びそうになった時、この与左衛門は、なんと真っ先に裏切り、手下の者どもに命令して、大坂城の大台所に火をつけさせた」と。秀吉、秀頼と親子二代にわたって可愛がられていて、しかも破格の出世をさせてもらった人が、一番に火をつけて裏切った。なおかつ、徳川家康のところにやってきて、大坂城に火をつけたのが自分の手柄だと申し立てて、「徳川家にご奉公いたしました、是非とも召し抱えてください、と願った」と。そののち、病気になって、さっさと死んでしまったけれども、権現様(家康)がその消息を聞いて、「元来、下男よりとはいいながら、太閤の恩を受けたやつが、恩知らずの不届き者だよ」といった。そう書いてあるので、この小説の主人公は、人間はこんな下劣な振る舞いはしてはいけません、という最悪人間の例として出てくる人です。
家康の身辺を記した日記『懐中記』にも、大角与左衛門は出てきます。大坂冬の陣の講和のあと、大角与左衛門が淀殿の使いとして、茶臼山の家康の本陣に布団を届けた、として登場します。これ、ちょっと不思議な話です。台所の係なのに、なぜか淀殿から直接命じられて「家康への重要な外交使者」として布団を届けにいっています。淀殿との親密度が尋常でない男です。以前、この史料を知って、僕は「秀頼の父親候補リストに大角」を入れたのを憶えていました。そうしたらこの本が出るじゃないですか。びっくりしましたよ。
木下 大角与左衛門が秀頼の父親かもしれないという考えは僕にはなかったですね。この布団の逸話は僕も知っていて、なぜここで料理を送らなかったのかが疑問だったんですが、磯田さんの話を聞くと全然色合いが変わってきますよね。歴史ってその光の当て方で色合いが変わってくるから面白いです。
磯田 大角という人物を取り上げることによって、当時を生きた秀長の葛藤とか悩みを、食べ物に映しながら解決したりする。兄弟喧嘩をしたときの「喧嘩飯」とか、そういう章題の付け方も感心しましたね。
大角に関しては、実際には史料が五つか、六つか、灯篭の銘文とかを入れても、そのぐらいしか残ってない人物です。それを、この小説本の分厚さまで膨らませられるっていうのは、やっぱり作家さんの想像力の凄さでしょう。僕らはもう歩兵が苦しく匍匐前進するように史料の上を這い回っています。小説家は航空部隊みたいに、すいすいと上空を飛んでおられる爽快な感じがあり、ちょっとばかり、うらやましい。
木下 僕らの作品はその研究者の方々の研究の元に成り立っているから、本当ありがたい限りなんですけどね。最新の史料でもっと人間ドラマが面白くなる可能性はありますから。
豊臣秀長の人物像
──秀長という人物は、どういう人物だったのか。お二人の秀長像をお聞きしたいと思います。
磯田 秀長ってはっきり言ってよくわからないんですよ。そもそも一次史料として数千通の書状が残っている秀吉に対し、秀長って本当百数十通のレベルで、特に若い頃のものはほとんどない。一次史料だけだと人物像が明示しずらいので、秀吉側近の回想録『豊鑑』という竹中半兵衛の息子の証言などで補いながら、人物像を探りました。それで見ると、秀長は三木城攻めの時など、結構、強いんです。要するに、秀長たちの軍勢は柵の中に入ってる時は強い。柵を作って突撃を防ぎ、柵の中から火縄銃でバンバンバンバン撃つ。銭儲けがうまく、補給が得意だから、銃丸と火薬が豊富にある。それで火力攻撃が連続的で絶えない。火力攻撃で敵が弱ったら、柵から出て、勇敢に追いうちをかける。こんな戦いを、かなりうまくやっている。柵や堀や堤など防御構造物の構築では、オレたち日本一だという自信が、おそらく豊臣兄弟にはあったはずです。
木下 秀長については、僕も同じ印象ですね。最初はやっぱり堺屋太一先生の小説とかで、ちょっと地味な補佐役みたいなイメージがあったんですけど、磯田さんのおっしゃるように結構強いと思っていて。磯田さんも本のなかで「分身」と書かれていましたが、要は秀吉が二人いるような状態だった。小牧長久手でも、秀吉は負けたけども、秀長が伊勢方面で頑張っているとか、秀長が長宗我部を討ちに行った時に秀吉は佐々を討ちに行くとか。九州攻めを見たら秀吉と秀長で東西に分かれて攻めてるので、将棋で言ったら王将が二つあるみたいな感じで、敵としたらすごく攻めにくい、嫌な奴らだと思いますよね。僕、総合格闘技が好きなんですけど、昔ホイス・グレイシーっていう人が強くて、すごい勝ち方してたとき、「兄貴の方が60倍強い」みたいなこと言って、日本のファンは、「ああ、二人も倒さなきゃいけないんだ」みたいな絶望を感じたんです。そういう絶望を多分、島津とか北条も感じたんじゃないのかなと思っています。
この小説を書き終わった後に感じたことなのですが、よく秀吉が「わるもの」で、秀長が「いいもの」みたいに描かれるじゃないですか。実際は秀長も奈良貸しとか、部下が吉野の杉を横領したとか、結構ダークなことをやっていて。秀長が死んでから秀吉が狂い始めるんですけども、もしかしたら秀長が悪い部分を引き受けていて、秀長が死んだことで、秀吉がそれをやらなきゃならなくなって、うまくいかなくてやっちゃいけないことまでやってしまったのかなとか、色々考えますね。ある意味では秀吉以上に優秀な人材だったと思うんですよね。とにかく仕事人というか。
磯田 常識人なのは事実だと思いますね。だけど蓄財についてはすごいんじゃないですかね。奈良の僧侶日記にも出てきます。秀長が死んだ時には金・銀・銭が、天井まで積み上がってた。もう病気で余命がないのに、なんであんなに貯めるの、あの世に持っていけないだろう、そんな批判が記されています。秀長は、税の取り立てや、お金儲けが上手で、儲け方も人に教えることができたのは、事実です。
だけど、秀長がかわいそうなのは、和歌山城と大和郡山城をほぼ同時に作れとか、和歌山の統治がまだ大変なのに、同時に四国攻めにも行け、済んだらすぐ、九州にも行けと、兄・秀吉に、徹底的に、こき使われたことです。あれで病気にならなきゃおかしい使われ方です。嫌だったら徹底して嫌だって言うはずですけどやってるってことは、秀長は、たいそうな働き者だったんじゃないかな、と思うんです。
※対談の様子は文藝春秋PLUSでご覧いただけます。

