実家でも「猿」と呼ばれていた秀吉
ここで秀吉が実家でも「猿」と呼ばれていたことがわかります。おそらく弥右衛門の遺した永楽銭一貫文、銭千枚です。これは当時としてはすごい額です。その全額ではなく、少し分けてもらって、家を出たのです。秀吉としては、本来ならこの一千枚もの永楽銭は全部息子である俺のものではないか、という思いはあったと思います。
父弥右衛門の遺産を使うにも、後から入ってきた竹阿弥に分けてもらわないといけなかったと記されています。これは十代の秀吉にとっては大問題だったのではないでしょうか。また、フロイス『日本史』は「山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた。」とあり、秀吉が薪も売る小商いをしていた少年であった事実はひろく世界に知られました。
秀吉が村を出た理由のひとつとして、私は周囲からのいじめの問題もあった、と推測します。秀吉は右手の親指が一本多い、多指症でした。これは加賀前田家に伝わる『国祖遺言』と、宣教師フロイスが書いた有名な『日本史』という二系統の史料で確認できます。
このうち『国祖遺言』は、前田家の国祖である利家の伝記です。子の前田利長も登場しますが、ある日、聚楽第で、蒲生氏郷、加藤清正、金森長近らと、「どうして秀吉ほどの人が指を切り落とさなかったのだろうか」などと屏風の陰で陰口を叩いているさまが記されています。
彼らのように秀吉の世話になった大名たちの差別丸出しの態度には、古文書ながら、読むたびに腹が立ちます。天下人になっても揶揄の対象になっているくらいですから、子供のころ、父もいない秀吉が当時の村のなかでどんな無理解に囲まれたか、想像に難くありません。
