自分の身体の痛みだから、もちろん感覚としてはよくわかっている。身をもって、いやというほどわかっている。しかし、それを言葉で説明するのは難しい。従来の表現にピタリとおさまる場合はいいのだが、そうでないと、言葉でいい表すのは難しい。新しい表現を生み出すしかないからだ。それこそ、詩人が新しい表現を生み出すために苦悶するようなことを、病人もやらなければならないのだ。

 詩人でも難しいのだから、これはなかなか困難だ。そのときも、さんざん話し合ったが、けっきょく、これだ! という表現にたどりつくことはできなかった。6人がかりでも無理だったのだ。

 そういう経験をしたあとで、中原中也の「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」を読むと、これはもう感心せざるをえない。「ぶらーん、ぶらーん」ではおさまりきらない感覚を、なんとか表そうとしているのだ。そのことに強く共感してしまう。

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 頭木弘樹氏

文学は究極的に実用的だ

 このおじいさんに限らない。自分の感じている痛みや苦しみを、言葉でうまく説明できないということを、たいていの病人は経験している。私もそうだ。医師や看護師がいないときに、6人部屋でいちばん熱心に話し合っていたのは、自分たちの病状を医師にどう伝えるかということだった。

「どう痛いのか、言葉で説明してみろ」という、ごく当然に思われる要求は、じつは病人に「詩人になれ」と言っているようなもので、難題なのだ。

 けっきょく、いい表現を思いつけなくて、従来の表現の中からいちばん近いものを選んで、それですませるしかないことが多い。しかし、このぴったりあてはまっていないという感じは、すごく気持ちがよくない。足に合わない靴をはいたままずっと歩かされたら、「ああ、足にフィットした靴をはきたい!」と思うだろう。病状の説明の場合は、命にかかわるかもしれないのだから、なおさらだ。

 文学は実用的なものではないと思われがちだ。高校の現代文の授業が「論理国語」と「文学国語」に分かれたときも、「論理国語」では実用的な文章を学び、「文学国語」は文学を学ぶという説明がされていた。しかし、「論理国語」が言葉で説明できることをきちんと説明するものであり、「文学国語」が言葉では説明できないことをなんとか言葉で説明しようとするものだとしたら、前者も大切だが、後者も大切だ。後者も日常生活に欠かせない。たとえばビジネスでも、ある食品のセールスをするには、成分等の説明だけでなく、おいしさの説明も必要だろう。おいしさというのは、言葉にするのが難しい。その表現はまさに文学の領域だ。そんなふうに、言葉では説明できないことをなんとか言葉で説明しなければならないシーンは意外と多い。そして、病気をして、自分の病状を医師に説明しなければならないという状況は、これはもう命がかかっているのだから、究極的に実用的なシーンと言えるだろう。