『痛いところから見えるもの』が話題の難病の当事者・頭木弘樹さんは、「難聴」を経験して初めてその「うるささ」に驚愕したという。ベートーヴェンが綴った苦悩から、村上春樹作品が描く「痛みの絶望」まで、私たちはどう他者の痛みと向き合うことができるのだろう?

(本稿は、前掲書から一部抜粋したものです)

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湖畔の静けさとは無縁の「難聴」 ©AFLO

3つの意味で難聴は「うるさい」

 私自身も、「経験しないとわからない」ということを何度も感じてきた。自分が難病だから、他人の痛みにもある程度は敏感なはずなのだが、それでも「まったくわかっていなかった!」という反省をくり返している。何度反省しても、やっぱり「経験しないとわからない」のだ。

 たとえば難聴になったとき、「難聴はうるさい」ということを初めて知った。音が聞こえなくなるのに、うるさいというのは矛盾しているようだが、実際、三つの意味でうるさくてたまらない。

 ひとつは耳鳴り。難聴のときは耳鳴りがひどいのだ。

 二つ目は、特定の音をとてもつらく感じるということ。私の場合、草刈り機の音が耐え難かった。草刈り機の音は普通でもうるさいが、それとはレベルがちがって、悶絶しそうになるほどなのだ。

 三つ目は気配。人は耳で気配を察知しているようだ。べつに何か聞こうとしなくても、いつも周りの音は耳に入っていて、だから後ろから人が歩いてきてもわかる。それが難聴になると聞こえない。そうすると、気配がその分だけ失われてしまう。失われたところに何が入ってくるかというと、不安が入ってくるのだ。気配がわからなくなるから、何か逆にいるような気がするのだ。

 たとえば真っ暗な道を歩いていると、何か現れてきそうな気がしてこわかったりする。よく見えないから、逆に見えないものを見てしまうのだ。耳が聞こえなくなっても同じで、何か不気味な気配を逆に感じてしまう。つい振り返ってしまうような。そういうような精神的なうるささもあった。

頭木弘樹さん