潰瘍性大腸炎から腸閉塞まで、苛烈な痛みを経験してきた文学紹介者の頭木弘樹さん。新著『痛いところから見えるもの』では、当事者ならではの視点から、痛みと孤独について掘り下げている。冬の街で身にしみた、あまりに切ないカフカの言葉とは?
(※本稿は、前掲書から一部抜粋したものです)
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痛みには孤独がもれなくついてくる
ガソリンに長時間接触したための化学熱傷とか、クローン病とか、特別なことでなくても、ありふれた痛みでも、その当人にとっては、自分だけにしかわからない特別さがある。
経験したとたん、「ああ、これは同じ経験をした人でないと、到底わからないだろう」と感じる。実際、話してみても、相手にまったく伝わっていないことが、相手の返事や態度ですぐにわかる。相手がどんなに親身であってもだ。
あなたは人間としてできる限りのことをやりましたが、あなたが持っていないものは理解できないのです。だれにもそれはできません。そしてぼくだけが自分のなかにすべての心配と不安を持っており、それらは蛇のように生なましいのです。
――フランツ・カフカ『決定版カフカ全集11』フェリーツェへの手紙(II) 城山良彦訳 新潮社
これは痛みについても同じだ。痛みには孤独がもれなくついてくる。
「話を聞いてもらえない」から馬に聞いてもらう
チェーホフに『せつない』という短編がある。
雪の積もった冬のロシアで、辻橇の御者をしている男が、客に話しかける。息子を亡くしたつらさを聞いてほしいのだ。しかし、どの客も彼の話を聞いてはくれない。木賃宿に戻って、そこの仲間に聞いてもらおうとするが、やはり聞いてもらえない。ついに男は、自分の馬に話を聞いてもらう――という、なんともせつない話だ。
この何千人もの群衆の中に、せめてひとりでも、話を聞いてくれる人はいないだろうか。しかし人の群れはせわしなく行き交うだけで、何も気づかない――彼のことにも、そのせつない気持ちにも……。せつなさはとほうもなく大きく、果てしない。(中略)それなのに、このせつなさは目には見えないのだ。
――『新訳 チェーホフ短篇集』沼野充義訳 集英社
これは心の痛みの話だが、体の痛みも同じことだ。
「馬に話すほど、そんなに聞いてほしいものだろうか?」と思うかもしれない。自分なら黙って我慢する、そのほうがましだと。

