「暑いですね」「寒いですね」とは言えるのに
しかし、猛暑のときに「暑い、暑い」と言わないだろうか? 寒さが厳しいときに「寒い、寒い」と言わないだろうか? 暑いとか寒いとか言ったところで、温度はまったく変化してくれない。しかし、言わずにいられないし、「暑い、暑いと言われると、よけいに暑くなるから黙っていろ」と口を封じられると、よけいに暑さが身内にこもる気がしないだろうか。
黙つてこらへて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛みが減ずる。
――正岡子規「墨汁一滴」『子規全集11』講談社
暑さや寒さなら、感じ方に個人差があるとはいえ、まわりのみんなが同じ暑さや寒さを体験している。だから、「暑いですね」「寒いですね」と言い合うことができる。そこに説明はいらないし、お互いにちゃんとわかり合える。
しかし、痛さとなると、話は別だ。「痛い、痛い」と言わずにいられないのに、「痛いですね」と返してくれる相手はいない。その痛みを感じているのは、自分だけなのだ。
猛暑や極寒を、もし自分ひとりだけが感じていたらと想像してみてほしい。自分だけ汗だらだらであえいでいるのに、自分だけガタガタと震えているのに、まわりはみんな平気なのだ。同じ暑さや寒さでも、何倍も苦しくなるのではないだろうか。
痛い人は、そんな立場にいつもいるのだ。しかも、暑さや寒さより、痛さのほうがきついことのほうが多い。
ある冬の日に“腸を通す”ために街を歩いていると…
前章で、腸閉塞になりそうなとき、外に歩きに出ていたと書いた。
そうすると、道行く人たちはみんな、行き先がある。どこかに向かっている。大通りを走って行くトラックや乗用車を運転している人たちも、みんな行き先を持っている人の顔に見える。
自分には行き先はない。腸を通すために歩いているのだから。そんな人間がさまよっているとは、誰も思わないだろう。まさに、「人の群れはせわしなく行き交うだけで、何も気づかない――彼のことにも、そのせつない気持ちにも」だ。私もきっと、他の誰かの思いがけないせつなさに気づいていない。
ある冬の日を思い出す。ため息も白かった。
道で工事をしていて、ひどい騒音だった。いつもなら、うるさいなあと思うだけだろうが、その工事の力強さに、なんだか胸を打たれた。たくましい人たちがもくもくと、削り、叩き、掘っている。
しかも、価値のある行為だ。私の行き先もない歩行とはまるでちがう。
カフカが日記に書いていた、こんな言葉を思い出した。
