カフカの言葉とマンガのような“ケーキでスキップ”の女性

 夕べの散歩のとき、

 往来のどんなちょっとした騒音も、

 自分に向けられたどんな視線も、

 ショーケースの中のどんな写真も、

 すべてぼくより重要なものに思われた。

 

――『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ』拙訳 草思社文庫

 この言葉が、いっそう身にしみた。

 若い女性が、大きなケーキの箱を手に下げて、ヘッドフォンで音楽を聴きながら、スキップをしてやってきた。クリスマスが近かったのかもしれない。それにしても、こんなマンガの中にしか出てきそうにない人を見たのは初めてだった。どうして、こういうときに、こんな人と出会うのか? 幸せそうな人がつい目についてしまうのか? 腸閉塞になりかけて歩いている男と、大変なちがいだ。

 もちろん、彼女にだって、どんな秘めた悲しみがあるかわからない。しかし、そのときの心境としては、なぜこんなにも大きな差がと思わずにいられなかった。

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 ある家の前に、救急車が止まっていた。家の中から患者を運びだそうとしているようだった。何の病気か事故かはわからないけれど、救急車に乗るほどなのだから、道を歩いている私より深刻だ。

 救急車が家の前に止まっているところに、たまたま出くわしたのも初めてだった。さっきのケーキでスキップの女性といい、こういうときにどうして、こういう出来事にぶつかるのか、不思議だった。

 その日は、なんとか腸閉塞を回避できた。夕飯は抜きでさんざん歩き回って、ぐったりして家に戻った。道でも孤独を感じたが、家の中に入ると、あらためて孤独を感じた。世間から見えない人が、さらに部屋の中に入って見えなくなったのだ。

この痛みを知るのが自分だけなのは耐え難い

 先に、大腸内視鏡検査の話もした。ちょっと特殊な事情があって、私の場合はとても痛いのだが、そんな事情を抱えているのは、もしかすると世の中で自分だけかもしれない――そう考えたとき、ぞっとした。

 つまり、この痛みを感じているのは世の中で自分だけかもしれないのだ。同じ痛みを感じている人は他に誰もいないかもしれないのだ。せめて「かもしれない」と言いたいわけだが、これがもし本当にいないとしたら、とても耐えがたいことに思えた。身近にはいないとしても、どこかには同じ痛みを感じている人がいると思えれば、まだしも耐えやすい。

 私は孤独に生活することには苦痛を感じないほうで、宮古島に移住したときも、誰も知り合いがいなかったが平気だった。しかし、たとえば島に自分ひとりしか人間がいないとなると、これはやっぱりきついだろう。精神を保てないかもしれない。

 痛みは、そこまで極端に、人を孤独にしてしまうこともある。

痛いところから見えるもの

頭木 弘樹

文藝春秋

2025年9月11日 発売

最初から記事を読む 「便が口から出るのよ」看護師の言葉に驚愕……潰瘍性大腸炎の私が今度は「詰まる」地獄の痛みに襲われるまで