ハーンが愛してやまない“我が家”。彼がここで心地よく過ごせるよう、セツも細やかな気遣いをしていた。
綺麗(きれい)好きで完璧主義者のセツは、毎日2度は家の隅々まで徹底的に掃除する。塵(ちり)ひとつ落ちていない状態にしておかねば気がすまないのだが、ハーンはパタパタとハタキをかける音が大嫌い。だから彼の留守中に手早く掃除をすませるようにしていた。
トロロ汁や刺身も食べていたが…
仕事に没頭している時のハーンはハタキに限らず音に過敏になり、微かな音にも神経をかき乱される。彼の思索を乱さぬよう細心の注意を払い、炊事や洗濯も物音たてぬようにやらねばならない。
食事に関しても、松江のような田舎町では、ハーンが求める食材を入手するには色々と苦労が多かったようである。富田旅館に滞在していた頃、トロロ汁や刺身など普通の外国人が絶対に箸(はし)をつけない料理を平気で食べるハーンの姿を多くの人々が目にしている。しかしそれは「私はこれだけ日本に馴染んでいる」というのを見せつけるためのパフォーマンスだった。
ご飯よりパン、コーヒー、ミルク
どうしても子どもの頃から慣れ親しんだ食材と味付けを欲してしまう。日本を愛しているハーンだが、食べ物だけは日本料理よりも洋食が好みだった。そのことを恥じていたから、人前でこれ見よがしに日本料理を食べたりするのだ。
しかし、他人から見られることのない家では洋食中心の食事になる。朝はパンとコーヒー、そして、かならず2合の牛乳を飲んだ。昼や夜は卵料理や煮物など日本食のおかずも少し食べるが、主食はご飯よりもパンを好んだ。また、ソーセージやステーキが大好物で、夕食後には必ずビールを2本ずつ飲む。当時の松江ではビールを取り扱っている店が少なく、切らさないよう常に大量のストックを確保しておくよう心がけていたという。
松江の風土は気に入っていた
散歩好きのハーンは、暇さえあれば市中の寺社をめぐり歩いた。京店の借家に住んでいた頃は、大橋を渡って市街地南側の白潟(しらかた)天満宮や南郊の高台にある洞光寺(とうこうじ)までよく出かけていた。洞光寺は彼の作品にも登場してくる。松江城下を見渡す境内からの絶景と、低く響き渡る鐘の音をこよなく愛していたという。