北堀町に引っ越してからは、屋敷から堀に沿って東へ10~15分ほど歩いたところにある普門院(ふもんいん)がお気に入りの散歩コースになっている。住職と親しくなり、家に招いて話を聞いたりもした。この寺は松江城を築城した堀尾吉晴(ほりおよしはる)が創建した古刹(こさつ)。ハーンの怪談話の舞台としても知られている。
昔は普門院の付近に「小豆(あずき)とぎ橋」という名の橋があり、その橋の下には女の幽霊が現れて小豆を洗うという伝説があった。また、橋の上で謡曲「杜若(かきつばた)」を歌うと幽霊の逆鱗(げきりん)に触れて恐ろしいことが起こるといわれる。ある夜、その話を聞いた豪胆な侍が「そんなバカなことがあるか」と、「杜若」を歌って橋を渡ってみせた。すると、侍が家に帰ると門の前に美しい女が待っていた。女は「主(あるじ)からの贈り物です」と侍に箱を渡して消え去る。箱を開けてみれば、血に染まった生首が入っていた。侍が驚いて家の中に入ると、そこに頭を捥(も)ぎ取られて死んでいる我が子の姿があったという。
セツは引越し後も「怪談」を集めた
ハーンの故国アイルランドは土着信仰の影響が色濃く、ハロウィンなど霊魂にまつわる風習が多く残っていた。昔話にも精霊や妖精はよく登場する。乳母からそういった話を聞かされて育ったせいか、日本の怪談や奇談にも強く興味を惹かれる。松江に来てからはこの類(たぐい)の話を多く収集するようになっていた。
セツにもハーンが好む話の傾向が分かってきたようで、集めてくる話にはしだいに怪談が多くなってくる。北堀町の屋敷に引っ越してから、彼女はさらに昔話を探すのに熱心になり、それに費やす時間も増えていた。
本の題名が「Kwaidan」のワケ
母親の幽霊が赤ん坊を育てるため水飴(みずあめ)を買いに来る「飴を買う女」の舞台である大雄寺、境内の亀の石像が夜になると動きだし城下で暴れて人を食う「人食い大亀」の月照寺(げっしょうじ)、等々、話はいくらでも見つかる。松江は怪談話の宝庫だった。集めてきた話には、欧米人のハーンが理解しやすく面白がるように多少手をくわえて、雰囲気を盛りあげるために口調なども工夫するようになる。それがハーンの創作意欲をかきたて、幾多の名作を生みだす原動力となっていく。