なかでも有名なのは「高田馬場の決闘」。元禄7(1694)年、のちの堀部安兵衛が義理の叔父を救うために村上兄弟と決闘した史実は、講談・映画・舞台で語り継がれ、その地名を全国区に押し上げた。“血闘”の物語は、のちの都市開発とは無関係のようでいて、どこかこの街の激しさを象徴する背景となった。
学生文化で「成熟しきらない街」へ
ときは明治大正、早稲田大学が存在感を増すにつれて街の顔は大きく変わった。
高田馬場は、新宿と池袋という巨大繁華街に挟まれた位置にある。しかし、その中間に新大久保と目白というふたつの特色ある街が挟まったことで、大規模歓楽地帯への転化を免れたともいえる。とくに目白は山手線内でも有数の落ち着いた文教エリアであり、早稲田大学を中心とする学術都市高田馬場の性格を保つことに寄与してきた。
駅前の噴水広場には、かつて授業を終えた学生たちが自然と集まった。友人と合流してコンパへ向かう者、恋人と別れ際の言葉を交わす者、予備校帰りで重い鞄を下ろす者など、さまざまな時間帯の若者の姿が交錯していた。春には新入生たちの期待が広場を包み、年度末には去りゆく学生たちの喪失感が滲んだ。毎年入れ替わる若者たちが街の空気を更新し続けるため、高田馬場は“永遠に若い街”であり、同時に“永遠に落ち着かない街”でもある。学生文化が絶えず新陳代謝されることによって、街が成熟しきらないという特性が、猥雑さと活気を共存させてきた。
猥雑さを眺め続けたビッグボックス
1974年、高田馬場駅前に巨大な複合型ビル・ビッグボックスが建った。西武鉄道初の駅ビル事業として注目され、設計を担当した黒川紀章は当時40歳、すでにスター建築家の名声を得ていた。サイコロを積み上げたような個性的な“中銀カプセルタワー”を手がけた直後であり、彼の建築思想が勢いを持って街に注入された時期である。
ビッグボックスの外観は、赤と白の大胆な配色から始まり、その後ブルーの落ち着いた色へと変化した。だが、全体としては「巨大な石棺」と形容されるほど無装飾な箱型であり、都市の雑踏の真んなかに厳然と立つ異物のような存在感を放つ。駅前の戦後バラックを一掃し、新しい時代の駅前空間を形づくる象徴的な建造物だった。
内部にはスイミングクラブ、フィンランドサウナ、フィットネスクラブ、ボウリング場、レーザーシューティングなどのスポーツ・レジャー施設が充実し、当時としては画期的な“娯楽のデパート”だった。飲食店やファッションフロアが入り、まさに“若者の複合的居場所”として機能した。
高田馬場の青春はしばしばこのビルの中で費やされた。講義前に立ち寄る学生、徹夜明けの身体をほぐしにサウナへ向かう若者、バイト代を握りしめビリヤードに興じた者。ビッグボックスは街の若年文化の受け皿。若者の欲望と時間を静かに吸い込んでいった。
ビックボックスの目の前、一方、駅前の猥雑さを象徴した屋台村は、戦後のバラック文化の延長線上にあった。夜になると薄い板壁やビニールの仕切りから漏れる照明と煙が、駅前の混合臭とともに漂った。学生たちがふらりと立ち寄っては、他人の人生に入り込みそうな距離感の狭い飲み屋で時間を潰す――そんな風景は2000年代前半まで長く残っていた。
