新宿と池袋という巨大繁華街の狭間で、独特の“猥雑さ”を放ち続けてきた街、高田馬場。そんな駅前にそびえ立つのが、黒川紀章設計の巨大な複合型ビル「ビッグボックス」だ。建物の完成は、いまから50年以上前となる1974年。以来、半世紀もの間、高田馬場に君臨するビルが重ねてきた意外な歴史、そして変化とは。フリーライターの本橋信宏氏の著書『東京アンダーグラウンド』(大洋図書)の一部を抜粋して紹介する。

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高田馬場という“猥雑さ”の原点

 高田馬場は、単なる歓楽街の雑然さとは異なった姿をみせる。それは、早稲田大学を中心とする学生街特有の若さの騒がしさと、戦後以来の地下文化・安価風俗・サブカルの系譜とが混じりあった独特の“若年混成空間”の結果だ。

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 昭和期から平成・令和にかけて、学生たちの飲酒トラブル、深夜の放吟、抗議運動の余韻、青春期の逸脱行動など、街の記録には若者の影がいつでも付きまとった。街のその魅力と危うさは常に背中合わせだった。

©︎GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

消えた屋台村とともに変わった高田馬場

 駅ホームが並んだ山手線と西武新宿線は駅のすぐ北側から2方向に分かれる。その2本の鉄路の間には小さな飲食店が軒を連ね、戦後のバラックの延長のような“屋台村”を形成していた。いうまでもないがこれらは違法建築で不法占拠、地代家賃がいらないからこその安さが人気だったが、ついに撤去された。戦後から続いた風俗的猥雑さの象徴が消える。駅前再開発によって戦後の影が薄れる一方、街の空気にはいまも若者特有の熱気と騒がしさが漂い続けている。

 学生街としての歴史は長く、昭和の後期からいくつもの大学はもちろん、予備校や塾、安価な飲食店、小劇場やライブハウス、漫画喫茶などが密集し、今日に至るまで“学生文化の本拠地”としての面影を濃く残している。1980~90年代にはサブカルの空気が流れ込み、インディーズ音楽や演劇が息づき、池袋や新宿とも違う、より雑多で自由な空間が育まれた。そして表面に現れたその暗部は、たとえば学生ローン。馬場はその広告が雑居ビルの側面に並び、若者の欲望や焦りがダイレクトに可視化される空間を形づくった。

 深夜の明治通りを歩けば、遠くから聞こえる放吟の声と、遅い時間まで開いている飲食店の灯が、青春の街に特有の“落ち切れない熱”を際立たせていた。

 ただ、そもそも高田馬場などという地名はなかった。周辺はかつて戸塚村と呼ばれ、「高田馬場」という呼称は俗称でしかない。由来をたどると、寛永13(1636)年、髙田村に設けられた旗本たちの馬術練習場に行き着く。江戸時代、そこは流鏑馬(やぶさめ)が行われる由緒ある馬場で松並木の参道には茶屋が並んだ。茶屋町と呼ばれたこの一帯は、江戸市民が気軽に訪れる行楽地のひとつでもあったのだ。