昭和ほど人口が減らなかった「明治の丙午」
吉川教授は江戸時代の享保11年(1726年)を、日本における丙午の迷信元年と定めている。この年以降、世相を反映した「文献」といえる川柳に、丙午を唄ったものが多く現れるからだ。江戸時代には3回の丙午年があり、3回目の弘化3年(1846年)には飢饉とも重なって嬰児殺しが悲惨を極めた。
明治になっても丙午生まれの受難は続く。2人の丙午女性が結婚できないことを悲観して文金高島田姿で心中をした。「友人たちはみんな結婚したのに自分だけ縁談の話もないのは丙午生まれのせいだ」と秋田県の女性が服毒自殺――。そうした事件が、当時の朝日新聞紙上で報じられている。
その一方で人口統計が始まり、より詳しい丙午の情報が残されるようになった。それによると明治の丙午にあたる1906年の出生数は約139万4000人。1905年の約145万3000人と比べて減ってはいるものの、1966年ほどの差ではない。
昭和の丙午騒動を煽り立てたのは、主にマスメディアだった。とりわけ、1964年の東京オリンピック開催時には世帯普及率が87.8%にまで達したテレビ、1955年から1967年までの12年間で総発行部数を約4倍に伸ばした雑誌、とりわけ週刊誌という当時の新興メディアにとって、1966年の丙午は鉄板のネタとなった。
昭和の新興メディアが煽り立てた「丙午伝説」
「丙午は生きていた」(サンデー毎日)、「迷信。貴方も信じるか?」(週刊読売)、「出生率が3分の1に減るかもしれない」(週刊大衆)――。雑誌『太陽』の昭和40年2月号によれば、NETテレビ(元テレビ朝日)の高視聴率番組「木島則夫モーニングショー」は、明治の丙午生まれの女性を夫とともに出演させ「丙午生まれの女性は化け物ではなく、やはり人間なのだ」と“検証”してみせたという。
1966年3月に結婚し、1967年4月に出産したY・Aさんは、結婚直後に出かけた新婚旅行のときのこんな出来事を振り返る。