ホストとゲストとゴースト。何だか似た響きだ。それぞれ英語で、おもてなしする人、おもてなしされる人、そして幽霊の意味。
著者によれば、これらの単語は、ユーラシア大陸のステップ(草原地帯)に暮らした古代遊牧民の失われた言語に由来するという。大草原の遊牧と言っても、決して勝手気ままの天下御免ではない。遊牧民同士の縄張りというものが自ずとできる。でも、自分の縄張りだけでは馬や牛や羊を食わせきれない場合もあるだろう。よその縄張りに入らざるを得ない。そのとき、許可する側の遊牧民がホスト、許可される側の遊牧民がゲスト、無許可で入り込み「早く消え去れ!」と怒鳴られる遊牧民がゴーストの語源というわけ。
英語になぜ古代の遊牧民の語彙が流入している? 著者は英語の祖語が遊牧民の言葉ではないかと言う。いや、英語だけではない。英語はインド・ヨーロッパ語族に属する。一五〇〇以上もの言語が含まれる。ヒンディー語もペルシア語もラテン語もドイツ語もみな兄弟。それらには文法や基幹的語彙に共通点がある。遡れば大本の祖語に辿り着くのではないか。そう考えたくなる。
そこでかつて祖語に擬されたのは、今のイラン等に住んだ古代アーリア人の言語。父なる言語を話した彼らは人としても神々しかったに違いない。金髪碧眼に理想化され、アーリア人の直系こそドイツ人というナチスの神話も生まれた。
だが、一地域に定住した民族の言語がインドからヨーロッパまで広がる話には無理があるだろう。そもそも祖語なんて本当にあったのか。もともと別々の言語が相互に浸透し合い、類縁性が刻まれただけではないのか。祖語の存在の可能性を強調しすぎて「アーリア神話」を生み出した言語学の反省である。
けれど著者は祖語があったという立場。外からの影響関係だけで、そんなにたくさんの言語の骨格までが類似しはせぬだろう。では祖語はいつどこに? 遅くとも紀元前三五〇〇年頃にステップの民が話していた言語だという。著者は言語学と考古学を交差させて精密な推理を展開する。そのさまはスリリング。とりわけ冷戦構造崩壊以後、旧ソ連圏の考古学的情報が共有され発掘も進展したことがとても大きいようだ。
古代のステップの民は徒歩で移動し、馬を食用にしていた。ところがそのうち誰かが馬に乗ることを思いついた。次に誰かが車輪を発明し、輸送車や戦車を発達させた。馬と車輪を有し、圧倒的な軍事力と商業力を発達させ、農耕も行って食うに困らず、鉱山さえ有し、青銅器を作る。彼らの言語は馬や車輪や遊牧に関する豊富な語彙を持ち、その言葉がインド・ヨーロッパ語族の源になる。
しかもこのストーリーは世界史の基本イメージを覆す力を持つ。たとえば司馬遼太郎は古代中国史を、遊牧だけでは食えない非定住民が農耕をして富を十分に蓄積する定住民から略奪しようとしては争いが打ち続く歴史としてとらえた。豊かさでは農耕民族の方が昔から上というのが世界史の常識だ。だが本書に従えば逆。遊牧民が優越的な支配民族で、インドからヨーロッパまでの定住民は周縁で彼らに保護され従属する民族であったと著者は考える。だから文明的に上位のステップの言語が周縁に広く行き渡り、インド・ヨーロッパ語族が形成されたという筋書き。納得できる。「アーリア神話」から「ステップ神話」へ。騎馬民族ファン必読の世界史書き換え本。