おそらく少年に侮辱の意図はなかったのだろう。どこかで大人が唄っているのを面白半分で口ずさんだに過ぎない。しかしセツは号泣したのではないか。松江で受けた屈辱が、熊本の自宅で再び蘇ったのである。それを見た八雲が激怒したのも無理はない。
この熊谷少年は、八雲が聡明さを気に入って松江から熊本まで連れてきて養育していた子である。それを即刻里に返すというのだから、八雲にとって松江での「洋妾」呼ばわりがいかに許しがたいものであったかがわかる。
そうしたネガティブな感情を、八雲はあえて記録に残すことはしなかったし、セツも身内には語っても外に漏らしたりすることはなかった。
しかし、当時の記録をみていくと松江の人々のセツへの反応がどういうものだったかが、自ずと浮かび上がってくる。
新聞にも報じられた“蔑称”
松江滞在時、八雲は松江では有名人であった。なにしろ、島根県ではもっとも優秀な生徒が集まる中学校の外国人教師である。かつ月給も100円という高給取りだ。もう道を歩いているだけで目立つし、訪問してくれれば店でもなんでもそれだけで鼻が高い。いわば、土地の名士であり大スターだ。
こうした「洋妾」という蔑称は、新聞報道にも表れている。当時発行されていた「山陰新聞」は、八雲の動向を執拗に追いかけていた。それも重要な出来事だけではない。なんでもいいから八雲に関する話題を掲載しておけば読者が喜ぶとばかりに、些末なことまで記事にしていた。
例えば1890年11月18日付では、八雲が寺社に参拝した際にきちんと賽銭を出して祈る理由を尋ね、さらに西田千太郎の見舞いに出かけたことまで報じている。1891年7月26日付では、八雲が関西旅行に出かけただけで記事にした。
これほど細かく八雲のプライバシーを書き立てていたのだから、結婚となれば当然大きく報じるはずである。ところが「山陰新聞」は完全に八雲とセツが結婚したとは考えていない。1891年6月28日付の記事では、八雲が研究熱心なために月給100円は毎月不足が出るくらいまで使いきっていることを記した後にこう書いている。