またヘルン氏の妾は南田町稲垣某の養女にて(中略)

完全に妾扱い。これはおそらく、八雲とセツが現在旧居として公開している家に引っ越したのを受けて、記事にしたものだろう。夫婦になって新居に引っ越した八雲らに向かって、半ば嘲笑しているふうにも感じられる。

世間は“本当の夫婦”と見ていなかった

その後も1891年8月15日付の記事は「ヘルン氏が京阪地方漫遊として愛妾同道昨日出発したり」と、妾扱いを止めない。しかも、その後、八雲が熊本を去る日までセツのことに触れられることは一度もない。

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おかしな話である。

セツが女中から妻になったと聞くと、なし崩しに同棲から夫婦同然になったように感じるかもしれない。しかし実際には、八雲はきちんと儀式を行って妻に迎えていた。

1891年8月、八雲は友人のペイジ・エム・ベイカに宛てた手紙で「日本風に結婚したばかりだ」と書いている。盛大な披露宴を開いたわけではないだろうが、媒酌人を立てるなど、なんらかの形で正式な婚姻の儀式を行ったことは間違いない。

にもかかわらず、世間はそうは見ていなかった。

あくまで愛妾、洋妾。没落した士族の娘が、女中から巧みに先生に取り入ったのだと邪推していたのだろう。そして、おそらく人々がもっとも口にしていたのは、こんな噂である。

「あの二人、まんだほんまの夫婦じゃないげなわ」

噂は事実であった。松江にいた時点で、二人は入籍していない。八雲は一家を構え、セツの家族に経済的援助までしているが、法律上は同棲に過ぎなかった。二人が戸籍上の夫婦になったのは、1896年2月に、八雲が小泉家に入り婿してからである。

これはどういうことか。八雲! お前は、そんなにいい加減な男だったのか‼‼

そうではない。八雲はセツのことを思えばこそ、入籍ができなかったのである。

日本に帰化すれば「給料が減る」

八雲はこの頃、友人のエルウッド・ヘンドリックに、法律上の正式な夫婦になることへの悩みを打ち明けている。それは自分が困るという話ではない。子供のことを考えてのことだった。