土手下で中年男性の死体が発見された。暴行の痕があり、肛門に〈目には目を〉と書かれた紙がねじ込まれていた。捜査の結果、被害者の身元が判明。彼の息子が大学時代に集団レイプ事件を起こしており、それがある筋からの圧力によって揉み消されていたことがわかった。八王子南署強行犯係の鞍岡警部補と本庁捜査一課の志波警部補(ちなみにどちらも男性である)は、事件はその復讐ではないかと考え、捜査を進めていく。
被害者の息子は集団レイプ事件の犯人だった
復讐だとすれば、なぜレイプ事件を起こした当人ではなくその父親が殺されたのか。あらためて当時の被害者家族に聞き込みに行った彼らは、そこで性犯罪被害者とその家族が長年にわたって苦しんでいる現実を目の当たりにする──。
序盤、武闘派の四十代である鞍岡と、若手ながら優れた洞察力と感性を持つ志波のコンビの対照性にまず惹きつけられた。被害者の妻を「奥さん」、被害者を「ご主人」と呼ぶ鞍岡に、志波はその場で異議を唱えるのだ。
肝心なのは、鞍岡は決してミソジニストでも男権論者でもないということだ。実際、冒頭の場面では女性警官を揶揄する部下を注意する場面もある。中学生の娘がいることもあり、少女を狙った犯罪を殊の外憎んでもいる。そんな鞍岡ですら、何の疑問も持たず「ご主人」「奥さん」と口にしてしまうという描写が実に象徴的だ。これは「刷り込まれた無意識」が炙り出される場面なのである。
この鞍岡は、現代の男性に多いタイプかもしれない。女性の扱われ方に問題意識はあるし、現状は良くないと思ってはいる。他人の言動が女性差別的であると思えば窘める良識もある。だがそこまでだ。それ以上積極的に問題にかかわる意志はなく、根っこのところに刷り込まれた意識はなかなか変わらない。
この鞍岡の意識が、志波や自分の娘との会話、女性警官とのかかわり、そして事件捜査の中で少しずつ変わっていく過程がひとつの読みどころである。志波との「対照性」と書いたが、終盤でわかる志波のあり方にも、ぜひ注目してお読みいただきたい。
鞍岡のみならず、そういったジェンダー問題に関する数々のジャブを序盤に仕込んだ上で、本書は最大の眼目である性犯罪が及ぼす残酷な影響へとなだれこんでいく。
レイプドラッグなどを使った集団レイプ事件は現実にも多く起きている。ある政治家が「元気があるからいい」と発言して大炎上した一件をご記憶の方もいるだろう。このように加害者を擁護したり、被害者の側にも原因があったというような二次加害は情けなくなるほど枚挙に遑がない。本書に描かれた事件はもちろんフィクションだが、読者である私たちはこれが決してフィクションではないことを知っている。被害者の絶望、その家族の苦難、加害者の身勝手な言い分、尻馬に乗って被害者を叩く無関係な人々……加害者は名無しのまま、被害者だけが追い詰められていく。読んでいて目の前が赤く染まるほどの怒りに何度もかられた(性被害の経験者はフラッシュバックのリスクがあるかもしれないのでご注意のほどを)。その怒りは小説に対してではなく、まさしくこの小説の通りのことが起きている現実社会に対してだ。この現代の構図は、とても正しい在り方には思えない。それなのに変わらないのはなぜか。
それこそが「概念の欠落」である。ジェンダー、セクハラ、マンスプレイニング。これらの言葉が日本で聞かれるようになったのは近年になってからだ。一九八九年の新語・流行語大賞の金賞を「セクシュアル・ハラスメント」が受賞したが、これは平成になって初めて「セクハラ」という概念が誕生したことを示している。それまで無意識に行われていたことや発言していたことに「セクハラ」と名前がついた。それでようやく私たちは「これはいけないことなのだ」と蒙を啓かれたのだ。マンスプレイニングやジェンダーが言葉として浸透したのはもっと最近である。それまで、強姦すら「元気がある」と言われるこの社会で、性にまつわる被害はとことん不可視の状況にあったのだ。
