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もし僕の現役時代にVRがあったとしたら

 スポーツトレーニングにおいてVRが革命的なのは、アスリートにとって最大の制約である「時間」を克服させてくれる点です。スポーツ選手のピークは短い。たとえば僕は、22歳のときに初めてオリンピックの代表に選ばれましたが、最後に日本代表に選ばれたのは30歳の北京オリンピックのとき。ピークの時間はわずか10年くらいでした。その少ない時間の中でどれだけの経験を積み重ねられるか。選手の能力はそこで決まります。ただ、肉体にはどうしても限界がある。一日に何十回も、何百回も激しい練習をおこなうことは不可能です。そんな限界があるなかで、VRは何度でも練習を繰り返す世界を可能にして、時間という制約を取っ払ってくれる。

 もし僕の現役時代にVRがあったとしたら、自分の限界をちょっと超えた世界を見るために使ったと思います。陸上にはトーイングという練習があります。これは、チューブで牽引してもらいながら走ることで、いつもより若干速いスピードを経験し、自分の中の“基準値”を変化させるトレーニングです。VRがあれば、これと同じアイデアを身体の負担なく、様々な場面で応用できます。100mで10秒を切ったことのない選手は9秒台の景色を見たことがないし、体操で4回転しか飛んだことのない選手は4回転半の感触を味わったことがない。でも、VRでそれを体験することで、そこに至る感覚を掴むことができるのです。

©iStock.com

 東京オリンピックに向けても、日本のスポーツ界はVRを活用すべきです。僕の現役時代の感覚では、勝負強い選手と弱い選手を分けるのは、イメージトレーニングの上手さでした。自分が勝つところ、活躍するところを思い浮かべ、そこに入っていける選手ほど勝負強い。このイメージトレーニングというのは、これまでは頭の中の〝仮想現実〟でおこなっていました。それが今では、VRを使って〝現実〟として体験できる。これを活用するだけでも、日本のメダル獲得率は大きく変わると思います。

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 また、VRは「コツのビジュアル化」も可能にします。スポーツの世界には、いろんな比喩表現があります。「ボールを遠くで離せ」とか、陸上だと「おへそから足を動かせ」なんて言われることがあるのですが、そうした抽象的な言葉でしか表現できなかったコツをVRで実際に体験することで、技能習得は確実に早まる。さらには、トップ選手の細かな動きをVRで計測し、データとして可視化することで、各選手が頂点に到達するスピードももっと早くなる。そうした選手強化に、これから各国が競うようにして取り組み始めるはずです。

 まだVRは誰もが使えるという段階にはありませんが、かつてはビデオも高級品でした。限られたトップ選手しか使用できず、しかも再生にはテレビのある屋内に戻らなければならなかったところから、いまでは誰もがスマートフォンでプレイを撮影し、遠くにいるコーチにもリアルタイムで送信できる時代になっています。様々なテクノロジーが世界を変えると言われていますが、たとえばAIは「いかに人間の脳を代替するか」という、人間不要論にも繋がる技術であるのに対し、VRは「使用した人の心や身体にどんな影響を与えるか」に主眼を置く、人間自身の可能性を広げるための技術だと言えるでしょう。VRで世界が、そして人間がどう変わるか、本書にはそのヒントがたくさん詰まっています。

VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学

ジェレミー・ベイレンソン(著),倉田 幸信(翻訳)

文藝春秋
2018年8月8日 発売

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