大滝詠一さんと深い親交のあった音楽評論家の萩原健太さんが、30年以上封印されていた大滝さんのロング・インタビューをもとに綴った『幸せな結末 大滝詠一ができるまで』。予約段階でAmazonの「音楽家・ミュージシャン評伝」部門ベストセラー1位に輝き、発売前に重版が決まるなど、話題沸騰の本書の中から、インタビュー収録開始直後に大滝さんが放った衝撃的な一言&ルーツとなる幼少期の音楽体験について語っている「第2章」の冒頭を抜粋して公開します。
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謎を解き明かすヒントは、すべて幼少期に
大滝詠一。1948年7月28日、岩手県江刺生まれ。母子家庭のひとり息子だ。母親が公立学校の教師だったため転勤が多く、詠一少年は小学校、中学校で何度も転校を経験。江刺、遠野、釜石などを転々としながら育った。
2001年、『ロング・バケイション』の20周年リマスター盤の発売に合わせて大滝さんにインタビューした際、ナイアガラ・レコードを作ってからも自分はいつも“仮住まい”だった気がすると話してくれたことがある。このインタビューは再編集したうえで第13章に再録しているので詳しくはそちらを参照していただきたいのだが。
ざっと要約しておくと。ナイアガラを75年に立ち上げたとき、その配給を託していたのはエレック・レコードというインディー系の会社だった。が、発足直後、エレックが倒産。思わぬ不運に見舞われたナイアガラは配給元を日本コロムビアへと移しなんとか活動を継続したものの、すでにこの立ち上げの瞬間からナイアガラには放浪の宿命が課せられていた。それだけに、このエレック~コロムビア時代、大滝さんはそこが終の住処だとはまったく思えなかったということ。
まさに仮住まい。仮も仮。テント住まい。80年代に入ってソニーに移籍し、『ロング・バケイション』『イーチ・タイム』を大ヒットさせたころは、確かに家どころかお城を建てたようなものではあったけれど、ほんの3年ほどで自らそこを焼き討ち。自分でお城に火を放って、すべて燃やし尽くして旅に出た。またまた放浪の旅。行った先々、立ち寄った先が住処、という日々のスタートだった、と。
そんな話を聞いて、まるでフーテンの寅さんですね、と口にしたら、大滝さんはこう即答した。
「いや、寅さんは毎回戻ってくるけどさ。渡り鳥だな。渡り鳥に故郷はないから。その世界」
この渡り鳥感覚もまた、ナイアガラ流を体感するための大きな指針だ。そして、それは子供のころからひとつところに定住することなく繰り返された転校体験にルーツがあるのかもしれないと思う。短絡的すぎるかもしれないけれど、いずれにせよ大滝さんをめぐる尽きせぬ謎を解き明かすヒントは、すべて幼少期にありそうだ。大滝詠一の原点とは何か。どんなものだったのか。彼の音楽をこよなく愛する者としては大いに気になるところ。
そのあたりのことをつぶさにうかがってみたいと思い、もう今から30年以上前になるが、91年8月、福生にあった当時の大滝さん宅に隣接した仕事場で、三日三晩泊まり込みながらお話をうかがった。『ロング・バケイション』のリリースから10年だったこともあり、そこでうかがった話を何らかの形で書籍化できたらいいなと、軽く目論んだりもしていたのだけれど。
しかし、インタビューの冒頭、大滝さんは――
「まあ、これが遺作だな。死後公開だ。死んだらすぐに出していいよ。ほんとに。でも、死ななきゃお蔵だな」
と、笑った。そんないきなりの宣言を受けて、そうか、ま、そりゃそうだよな、そんな気がした、とすんなり納得し、書籍化は即断念。以降、ぼくはこの3日間を記録した膨大なカセット・テープの山を棚の奥にしまい込み、内容をどこにも公開せずにおいた。
でも、大滝さんが突然逝去された2013年からもすでに10年以上。そろそろかな、と。大滝さんの言葉をもう一度、まあ、超膨大な情報量のうちのほんの一部ではあるのだけれど、世紀を超えた今の空気の中に解き放ってみようと思う。
ちなみに、ひとつだけ約束事を。大滝さんとの会話はいつもたくさんの笑いに溢れている。インタビュー記事を書くときも、すべての文末に“(笑)”を付けたくなるくらい、ウィットに富んだ言葉の雨あられ。だが、さすがにそれをやると見た目にもうるさいし、くどいし……。ということで今回のインタビューに関しては、“(笑)”をいっさい使用しないことにした。あしからず。基本的にすべての文末に大滝さんらしいユーモアなりシニカルさなりが込められているという前提でお読みいただきたい。よろしくお願いします。


