第100回全国高校野球選手権記念大会が開催されている。
「私たちは今、100回という、長く、重みのある、歴史の上に立っています」。
開会式の選手宣誓で、近江高校の中尾雄斗主将がそう語るなど、改めて「100年」という年月の重みを感じずにはいられない大会となっている。いち部活動の全国大会がこれほどの歴史を刻んできた事実には驚くほかない。大会運営にかかわってきた関係者、高校野球界を盛り上げてきた指導者の功績は大きい。
甲子園の素晴らしさは、高校球児の純粋さ、一生懸命さだ。仲間と苦楽を共にしながら、技を磨き、和を大切にして、一生懸命に取り組む。その姿は、時には戦後復興、災害など、様々な苦しみの中にいた日本人の心に響いた。
甲子園の「光」にしか目を向けない大人たち
とはいえ、100年の歴史に、一片の曇りもなかったということではない。
物事には常に「清」と「濁」があり、「善」と「悪」、「光」と「陰」が混在している。しかし、甲子園においては、その「陰」の部分に注目されることがあまりにも少ない。投手が身体の限界を訴えて、顔を歪めながらプレーをしていても、指導者が「勝利のため」と続投を強いる。あるいは練習時間が度を過ぎるほどになっていても、子どもたちの「勝利への渇望」を煽り、学生の本分を蔑ろにした教育が行われている。メジャーリーグのスカウトに「児童虐待(チャイルド・アビュース)」とまで指摘されているが、日本のメディアは、それをほとんど批判することなく、「感動ストーリー」として書き立てる。高校野球の「光」にしか目を向けないのだ。
それがこの100年間の裏にある真実である。
「勝利至上主義」が加速した「松井秀喜の5敬遠」の頃
8月9日に上梓した拙著『甲子園という病』(新潮新書)では、甲子園という素晴らしい舞台の「陰」の部分に敢えて光をあて、今の高校野球における問題点を詳らかにした。
その問題の根底にあるのが、この100年の間に加速した、甲子園における「勝利至上主義」である。
戦いが始まれば勝利を目標にすることはごく自然な真理だ。甲子園における「勝利至上主義」とは、甲子園で勝たなければ意味がない、敗北に価値はないと考える主義・主張のことだ。勝つことだけにこだわり、それさえ果たせれば他に失われることは考えない。
92年大会で起きた「星稜・松井秀喜の5敬遠」はその最たるものといえるだろう。試合後、投手に敬遠を命じた明徳義塾・馬渕史郎監督は「勝利至上主義」を口にして批判を浴びたが、「勝つためには手段を選ばない」指導者の存在を印象づけた。高校野球界の勝利至上主義が加速したのは、その頃からではないかと思う。
有望な中学生の勧誘活動が活発化し、長時間練習、上意下達的な指導が横行し、勝つための戦術も多く生まれた。球児たちは、指導者が考えた戦術に当てはめられるように仕立て上げられた。学生の本分であるはずの勉強時間が大きく削られることもいとわなくなった。そして、いざ勝負をするとなると、強い投手ほど、マウンドに立ち続けることを義務付けられた。勝利が絶対となり、エースと言われた選手は「みんな頑張っているのだから」とチームの命運を背負った。その結果、身体を壊し、人生を棒に振ってしまう球児が数多くいるのだ。