玲奈さんは飯森になつき、呼び方が「お兄ちゃん」から「パパ」に
それでもB子さんは、時折飯森と連絡を取り合い、養育費を渡してくれたという。
「少ないときは28万くらい。最高は80万円。僕は無職なので、僕にも『(お金を)使いや』と」(同前)
玲奈さんは次第に飯森になつくようになり、呼び方も変わっていった。
「はじめは『お兄ちゃん』と呼んでくれた。その後、『パパ』と呼んでくれた。(柴田のことは)『お姉ちゃん』だったのが『ママ』と呼ぶようになりました。(パパと呼ばれて)嬉しかったです。でも、ためらいもあった。本当のパパではないから」(同前)
稼ぎもない、子育て経験もない飯森が週1、2回のペースで玲奈さんのいる八尾の父親宅に出向き、遊び相手をする。こうした生活が続いていたのだが――。
玲奈さんの一言が決め手となり、飯森が引き取ることに
2005年2月、転機が訪れる。それまで玲奈さんの世話を一手に引き受けていた飯森の祖母が認知症を患い、入院することになってしまったのだ。八尾市内の家に残されたのは、飯森の父と玲奈さんの2人。家事がまったくできなかった飯森の父は、出来合いのお惣菜等を玲奈さんに食べさせていたものの、明らかに栄養不足で玲奈さんは次第にやせ細っていった。そして、父は飯森に対してこう言い放ったという。
「俺は玲奈の面倒は見られない。お前が見ろ」
飯森は、玲奈さんを施設に入れる、もしくはB子に返すといった提案をしたが、いずれも強く反対された。結局、玲奈さんのこの一言が決め手となり、飯森が引き取ることになった。
「パパと一緒に住みたい。おじいちゃんは嫌だ」
2006年9月、飯森と玲奈さんは一緒に暮らすことになったが、これが悲劇の始まりだった。当初、飯森は玲奈さんを必死で育てようと努力していたというが、だんだんと“子育て”に対し、悩みを抱えていくようになる。
「食器に入っている食べ物をひっくり返してこぼしたり、コップに入っている飲み物をひっくり返してこぼしたりするんです(中略)玲奈は当時6歳。年が明けたら小学1年生です。学校に行かせる準備もまったくできていませんでした」(飯森証言)
