「早く逃げないと、ソ連軍が来る――」
1945年8月、満洲にいた日本人たちは、そんな恐怖に追い立てられるように避難を始めた。だが道中で待っていたのは、暴徒の襲撃、飢えや病、そして味方だったはずの軍人たちの反乱だった。
幼い子どもや高齢者を抱えたまま続いた、命がけの逃避行。敗戦の裏側で起きていた「満洲難民」の過酷な現実とは何だったのか。防衛研究所主任研究官・小野圭司氏の著書『太平洋戦争と銀行――なぜ日本は「無謀な戦争」ができたのか』(講談社)より一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/最初から読む)
◆◆◆
楚歌に囲まれる項羽さながら:満洲
8月14日に避難のため新京を出発した満洲中央銀行の行員・家族約2000人は、20キロほど進んだ先の軍官学校で夜を明かして8月15日の朝を迎えた。しかし重い荷物を持っているうえに、避難民には乳幼児や病人・高齢者などの、いわゆる「戦争弱者」もいることから、そこから先に進めなくなった。
避難民の窮状が伝えられた新京では、急ぎ在郷軍人(現役兵役を終えた予備役・後備役の軍人)約80人で救援隊を編成して軍官学校に派遣することになった。この救援隊には、満銀発行課長の武田英克も同行する。
武田ら救援隊は、新京の東南端を通過する際、食料品や医薬品を積んだ馬車の上で玉音放送を聴いた。すでに満洲は「敗戦」の状況だったが、改めてポツダム宣言受諾に関する玉音放送が流れると、救援隊には言いようもない虚ろな空気が広がった。
しかし間もなく、彼らの虚脱感は一気に吹き飛んだ。日本の敗戦を知った満洲人・中国人が日本人に暴言を言い放ち、襲撃まがいの行為も見られるようになったからだ。救援隊は足を速め、午後3時半頃に軍官学校に到着した。救援隊が着いて見ると、軍官学校の満洲人士官候補生らが避難民に銃を向けようとしている有り様だった。
軍官学校は士官学校に相当する満洲国軍の幹部養成学校で、後に韓国大統領となる朴正熙もここで学んだ一人だ。ソ連の満洲侵攻が始まると、軍官学校は満洲国軍から離れて関東軍の指揮下に入った。ところが玉音放送が終わると、満洲人・中国人の軍人・生徒は日本に反旗を翻した。
避難民たちは、敵に降った味方の歌を聴く垓下の項羽さながらだった。
