暴徒に殺害された銀行員も
避難民団は、それ以上先に向かうことができないという判断になり、その日の夕刻に軍官学校を出て新京に戻ることにした。乳幼児・病人・高齢者は馬車に載せ、それ以外は重い足を引きずりながら徒歩での移動だ。在郷軍人は小銃の先に銃剣を付けて、常に警戒を怠らない。万が一、暴徒に襲われた場合の備えである。
夜になると激しい雷雨に見舞われたが、みんな黙々と来た道を戻っていった。預かった同僚の子供を抱きかかえて歩くために、武田の妻は手元に残った唯一の財産である現金や宝石を、リュックサックごと道端に捨てた。
彼らは8月16日の未明、満銀総行から4キロほど南にある建国大学に到着した。大学構内から見る北方の空は、炎に照らされて赤く染まっている。未だソ連軍は新京まで来ていないので、暴徒による放火だろう。
この行程で幼児が1名事故で、成人女性が1名病気で亡くなっている。避難民団とは別行動をとって南に向かった満銀行員には、暴徒に殺害された人もいた。
避難民たちは、その日の昼下がりまで大学構内で休んだあと、それぞれの舎宅に戻った。地方から新京に逃れて来た人たちも、新京の舎宅に分かれて間借りした。
行員・家族たちが避難を始めた後も、満銀総行では8月15日以降も残った職員の手で営業が続けられ、各銀行からの預金払い戻し資金の求めに応えていた。新京にいた日本人は一部の政府・企業関係者を除いて南方に避難を始めていたが、入れ替わりに満ソ国境方面から日本人避難民が新京に入ってくる。このため新京にいる日本人の数は、逆に増えていた。