「なんかさ」「なんかね」と口にする時は…
タイトルにも使われている「なんかさ」「なんかね」という言葉は、劇中にもたびたび登場する。それは文菜から、ときには彼女の周囲の人物たちからもふとこぼれるのだが、そのあとには少し込み入った話や、どこか哲学めいた会話が続くことが多い。「なんかさ」「なんかね」で助走をつけ、普段は口にしづらいことや、まだ定まりきっていない自分の想いを、ゆっくりと話し始める。
それと同時に、文菜とゆきおは、その手の会話をほとんどしていないことに気づく。特に顕著だったのが、二人が温泉旅行に出かけた第8話。ようやく二人の日常にスポットライトが当たるものの、その会話の大半は取り止めのない雑談に終始する。一番盛り上がったのは、「食べること・喋ること・呼吸することを担う“口”の負担が多すぎやしないか」という話題だった(ちなみにここで文菜は、ゆきおに対して珍しく「なんかさ」を使って話を切り出すのだが、その内容がこれである)。
他のやり取りに比べると、恋人同士であるはずの二人の会話は、どこか子どもじみていて、薄っぺらくも映る。人によっては、こうした他愛もないやり取りができる関係のほうが心地よいのかもしれないが、文菜はゆきおともっと深い話がしたいのではないだろうか。
“答え合わせ”をしたくなるドラマだった
けれど、どこか後ろめたさを抱える文菜は、ゆきおに本当の自分を見せることができない。あるいは、出会ったばかりのゆきおに「疲れません? そんなこと普段から考えて生きてるんですか?」と言われたことで(第1話)、「どうせわかってもらえない」という思いが心のどこかに残っているのかもしれない。
しかし、二胡との過去を打ち明けた際に「文菜は大切なことをあまり話してくれないから」とこぼしていたゆきお自身も、不安を抱えていたのではないか。でも、ゆきおだって大切なことを何も話そうとしないじゃん!――と、『冬のなんかさ、春のなんかね』のことを考えるたびに、いち視聴者である筆者自身もまた逡巡してしまうのである。
今泉監督といえば、2025年の『セフレと恋人の境界線』(Amazon Prime)という恋愛考察バラエティ番組があった。映画『ナミビアの砂漠』の山中瑶子監督と今泉監督が手がけた短編恋愛映画を、スタジオでゲストが考察し合い、最後に今泉監督自身が“答え合わせ”のようにティーチングをしてくれるという面白い試みだった。いっそのこと、『冬のなんかさ、春のなんかね』も全話そうしてほしい。とにかく、誰かと語りたくなる作品であることは間違いないのだ。
文菜の物語に、冬の晴れた日のような、あるいは春の雪解けのような瞬間は訪れるのだろうか。


