国内販売よりもアメリカからの注文が早かった
即席麺は1958年の春ごろにはほぼ完成する。試作品は、家族総出で梱包し、あちこちの知人に配ると好評を得た。貿易会社の知人に頼んでサンプルをアメリカに送ると、さっそく注文があった。チキンラーメンはじつは国内販売のめどが立つ前に、輸出されていたのである。
この年8月25日に発売するにあたっては、大阪市内の古い倉庫を工場に改装し、量産された商品が売れるかどうかを実験するテストプラントとした。ある日、工場を手伝っていた妻の仁子が家に帰る途中、会った友人から「いまご主人は何をされてますか」と訊かれたので、「ラーメン屋さんです」と答えた。これに相手が驚いた様子を見せたので、仁子は少しムッとしながら「主人は将来必ずビール会社のように大きくなると言っています」と説明したが、結局、理解してもらえなかったという。
百福が問屋に持ち込んだときも、「いままでの乾麺とどう違うのか」と反応は芳しくなかった。だが、いざ店頭に並ぶと、消費者からの評判は上々で、たちまち問屋から注文が殺到する。やがて総合商社も販売に名乗りを上げた。
「ダイエー」とCMで全国に広まっていく
こうなると小さな工場では需要に応じきれない。百福はすでに本格工場のための敷地を大阪府高槻市に入手し、建設に着手していた。翌59年に完成した工場には連日、商品を待つ問屋のトラックの列が取り巻くようになる。問屋には発売当初より現金決済を徹底したため、工場用地の購入代金は、わずか1ヵ月の売り上げでまかなえたとか。
折しも高度成長期に入ろうとしていた時期だ。ちょうどチキンラーメン発売と同じ1958年には、スーパーマーケット「主婦の店ダイエー」のチェーン1号店が神戸に開店し、大量販売のルートが開かれた。また、開局まもない民放テレビでCMを盛んに流し、チキンラーメンの名は全国に広まっていく。これらを追い風に、チキンラーメンは大ヒット商品となったのである。
長寿の秘訣は週2回のゴルフ&1日1度のインスタントラーメン
安藤百福はその後、1971年に発売したカップヌードルにより、さらなる市場を開拓する。「創業者に定年はない」がモットーだった百福は、95歳で取締役を退任し「創業者会長」という名誉職となってからも毎朝会社に出勤した。長寿の秘訣として彼があげたのは、週2回のゴルフと1日1度のインスタントラーメンの食事。毎日昼食時にはチキンラーメンを吸い物代わりにしたり、中にご飯を混ぜ「チキンリゾット」と称して食べた。また、いったんゴルフの約束をしたら、たとえ土砂降りの大雨でも必ずゴルフ場に足を運んだという。2007(平成19)年正月にも会社のゴルフ大会で元気な姿を見せたが、数日後に急逝。96歳の大往生だった。
安藤サクラは92歳まで生きた仁子をいかに演じるか
百福の妻・仁子も2010年、92歳で亡くなっている。仁子はもっぱら家庭にあって夫を支える立場にあり、百福に関する本のなかでも触れられることは少なかった。それが前出のドラマ『まんぷく』では主人公・今井福子のモデルに選ばれたわけだが、NHKのサイトによれば「初めは耐えるだけの福子だったが、やがて夫を支え、背中を押し、引っ張っていく強い女に成長していく」というふうに描かれるらしい。
思えば、演じる安藤サクラは、ドラマ『ゆとりですがなにか』で演じた、結婚後も夫の実家の造り酒屋を切り盛りする元キャリアウーマンなど、バイタリティあふれる女性がハマり役だ。今回の朝ドラも、出産して仕事はもうほとんどしないつもりでいたところへ依頼があり、悩んだ末に、覚悟を決めて出演に承諾したという(『日刊スポーツ』2018年1月31日)。そんな安藤だからこそ、実話とはまた違った女性の生き方を見せてくれるに違いない。いまから放送が楽しみだ。
参考文献:安藤百福『魔法のラーメン発明物語 私の履歴書』(日経ビジネス人文庫)、奥村彪生『麺の歴史 ラーメンはどこから来たか』(安藤百福監修、角川ソフィア文庫)、青山誠『安藤百福とその妻仁子 インスタントラーメンを生んだ夫妻の物語』(中経の文庫)