サードを守っていた助っ人には「一茂を出せ」とばかりのブーイングが……
そんなとどまることのない長嶋フィーバーの中で、チームはひとつ問題を抱えていた。全盛期はメジャー屈指の三塁守備と称された37歳のデシンセイの起用法である。開幕戦で東京ドーム公式戦第1号を放ち、翌日も2試合連続のアーチを記録したが、あくまで三塁に強いこだわりをみせるデシンセイは次第に微妙な立場に立たされてしまう。
スタンドからは一茂見たさにブーイングが浴びせられ、右脇腹痛で一塁にまわればスタメン発表でヤクルトファンから拍手がわき起こる。それでも、“デーやん”と呼ばれたジェントルマンは、一茂の先生役を買って出てエールを送ってみせる。
「(一茂は)将来はビッグスターになるはずだ。ボクだってメジャーに上がった当初は、いろいろ戸惑った。彼にも、最初から多くのことを期待するのは難しいと思う。いろんないい選手のプレーを見て、研究して頭にたたき込むことが大切だ。たとえばボクの守備を見ていて、自分はどこが違うのか、勉強してほしいね。彼がスターになるためなら、いくらでも協力したいと思っているんだから」(『週刊ベースボール』1988年5月9日号)
そして、デシンセイは自らが特許を持つ、守備時に手首に付けるリスト・プロテクターを一茂にプレゼントするのだ。だが年齢的な衰えは隠せず、後半戦は一塁で起用され、8月23日の広島戦を最後に椎間板ヘルニアの治療のため帰国。この頃、チームは優勝争いから脱落して若手中心の起用法となり、8月は「三塁・長嶋」が14試合連続のスタメン出場と定着した。
最終的に一茂のプロ1年目の成績は、88試合で打率.203、4本塁打、22打点。大卒ルーキーとしては上々の滑り出しにも思えたが、その後伸び悩み、出場試合数や打点はこの年がキャリアハイとなった。それでも、日本中の注目を集めた長嶋フィーバーは凄まじく、ガリクソンからプロ初ホームランを打った1988年4月27日19時59分の巨人戦ナイター中継のテレビ視聴率は、30.2%まで跳ね上がった。新聞、雑誌が年間を通して追いかけ、メディアへの露出量という意味では、間違いなく球団の新人史上最多だっただろう。
