1988年のプロ野球は多くの人が「背番号3の男」に注目していた。その名は長嶋一茂、言わずと知れたミスタープロ野球・長嶋茂雄の長男である。ヒットを打てばラジオが緊急中継、卒業式には記念撮影を希望する1000人規模の行列が……。空前の一茂フィーバーの裏側を、『プロ野球1年目の分岐点 25歳の落合、18歳の大谷』(中溝康隆、PHP研究所)から一部抜粋してお届けする。
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メディアがこぞって「背番号3」を追いかけた
「ちょっと待ってください!! こういうのはプライバシーの侵害じゃあないんですか!!」
荷物を積んだワゴンの車の中をのぞき込む記者たちに向かって、22歳の長嶋一茂は珍しく声を荒らげて抗議をした。1988年2月5日、立教大の卒業試験を終え、長嶋が埼玉県戸田市のヤクルト合宿所に荷物を運び込むだけで、50人を超す報道陣が駆けつけたのだ。
前年のドラフト会議で、大洋と1位競合しながらも交渉権を獲得したヤクルト球団は、日々加熱する報道から金の卵を守ろうと、「取材は共同会見に限る。指定区域外からの写真撮影はダメ。雑談、会話も禁止」という異例の取材規制を打ち出す。
父・茂雄は「親がベタベタ、ゴチャゴチャ表面に出たらみっともないですよ。星飛雄馬じゃあるまいし(笑)」とあえて放任主義を貫いたが、昭和最後の長嶋フィーバーは“プラチナ・ボーイ”と称された一茂が一軍のユマ・キャンプに合流しても続いた。
『週刊ベースボール』1988年3月7日号には、巻頭グラビアで「ユマ発 カズシゲ密着グラフ」、さらには特派員現地リポート「長嶋一茂inユマ」も掲載。新聞・雑誌各社にキャンプ中、1回限りで5分間単独ミニ・インタビューが許可された。
背番号3の新人選手だけをカメラが追いかける異様な状況に、一茂本人もキャンプで一番キツかったことを聞かれると、「取材です」と口にするほどだった。
