「初期の作品『あのひとは蜘蛛を潰せない』が母と娘の関係を描いたものだったので、今作では父と娘の関係をメインに据えました。よく『ご自身の経験が元になっているんですか?』と尋ねられるんですが、そんなことはありません(笑)。独特の関係性を捉えている、なんて評していただくこともあって嬉しいんですが、父娘にせよ母娘にせよ、どんな関係も“普通”はなくて、いつだってそれぞれに特別で奇異なものなんじゃないかと思っています」
デビュー以来めきめきと頭角をあらわし、前作『くちなし』では直木賞候補にも名を連ねた。おさまりの悪い気分を催す小説を書けば当代一かも知れない。
話は東京・杉並区にある元病院だった古い洋館を、そこで生まれ育った女性漫画家が年下の恋人を伴って訪れるシーンから始まる。
「いかにもなにかサスペンスが起こりそうなプロローグですよね(笑)。でも、最初に書こうと考えていたのは中盤に出てくる“暴力”でした。タブーを冒す人間を書きたいと常々思っていて、暴力をふるう人間も書いてみたかった。今作ではそれを漫画家と恋人の間でおこるDVにしました。書いたことのないシーンを生み出して、そこから物語を作りました。主人公の女性漫画家がどういう境遇でどう育ち、どんな家族に囲まれていたか。書いていてすごく楽しめました」
冒頭の不穏な雰囲気は、やがて訪れる、暴力をはらんだ恋人たちの極限状態を予感させる。だが終盤、これが単なる破滅の物語ではないことに気づく。主人公が至った境地は、恋人、家族、愛のありかたについてのありふれた通念を打ち崩すような衝撃に満ちている。
「恋愛を題材にした小説をよく読んでいたからこそ、あたりまえの恋愛とは違うものが書きたいのかも知れません。でもそれほど狙ってるわけじゃなく、小説として水準を越えているかどうかを気にしています。だから思いもしなかった角度から褒めていただけると『そんな風に読めたのか!』と驚くことがあります」
分かりあえないまま別れた父、“普通”でなかった家族。置かれた環境を引き受けながら、もがく主人公の姿は読む者の心を打つ。
「いつも考えるのは『自分の意志』ってなんだろう、それを持つことは本当に可能なのか、ということ。状況や時代、周囲の意見が変わる中で自分の理想や思想をどう保ち、どう作り替えていくかをこれからも書いていくんだと思います」
『不在』
父の死をきっかけに、生まれ育った洋館へと舞い戻った漫画家の錦野明日香。そこはかつて母に連れられ、兄とともに飛び出した家だった。父が残した謎めいた遺言、生家の片付けを続けるうちに蘇る記憶、愛する恋人との関係の変質――状況の変化に伴い、明日香もまた、己の生き方を問い直す必要に迫られる――。