子育てを終え、会社ではもう出世の望みはなく、閑職に追いやられている50代の男が、一億円を手にしたらどういう行動に出るか。
「一億円って、死ぬまで悠々自適に暮らせるかというと、長寿の時代においてはやや心もとない金額。また今の50代、60代は僕らの親の頃に較べてまだまだ若いから、何もせずにいるのも詰らない。一億円くらいあれば、起業するなりしてやり直したい、と思う男の人は結構いると思いますよ。だけど現実には、子育てで経済的体力を使い果たしてしまう。今回は“あり得るかもしれないファンタジー”を、僕の世代の男性読者に楽しんで貰おうと、一生懸命に書きました」
加能鉄平、52歳。東京の医療機器メーカーの凄腕営業マンだったが、10年前に理不尽なリストラに遭う。祖父が創業し叔父が社長を務める福岡の化学メーカーに拾われ、能力と血筋からして経営陣入りが確実視されていた。だが従兄弟が後を継ぐと、「試験機器調達本部本部長」なる役職に左遷される。その時期に長女は看護学校に、長男は歯科大学に入学し、相次いで親元を離れる。
「子供はお客さんだと思うんです。譬(たと)えれば両親のホテルに無料で長期滞在し、経営状態などには頓着せず、時機がきたら“お世話になりました”と出ていく(笑)。初老のオーナー夫妻だけ残された時、案外お互いを知らなかったことに気付く」
諦念まじりではあるがそれなりに平穏だった鉄平の日々は、妻・夏代に48億円の隠し資産があることが判明し、大転換する。
「女房が金持ちだったらいいなあ、というのは男の夢。嫌な会社を辞め、家族と離れ、自由に生きられる(笑)」
難詰する夫に妻は、とりあえずお互い一億円ずつ持ち、どんな風に感じるか試してみましょう、と、現金一億円を渡す。夫は戸惑うが、夏代の第2の大きな裏切りを知り、金沢へ飛ぶ。
「ちょっと前に新幹線で出会った、幼馴染である小料理屋の女将を訪ねる。従業員がまかないで出してくれたのり巻きの美味しさに、テイクアウトの出店を思いつく。今回は“偶然”という要素も使って、とにかく読者のページを繰る手が止まらない小説にしたかった」
のり巻きチェーンの事業は順風満帆に展開するが、なぜか鉄平は今一つ本気になれない。そこに加能産業の経営危機の報が入り――。企業小説であり、ロードノベルであり、夫婦愛の物語。小説の面白さがこれでもかと詰め込まれた1冊だ。
『一億円のさようなら』
会社に裏切られ続けた男は、妻からも隠し事をされていた。子供2人は無事巣立ったかと思いきや、それぞれ勝手な異性関係で親の気持ちを踏みにじる。男は家族を捨て、「一億円」で新しい人生を歩めるのか。家の外に蠢く「邪悪な人間」たちの造型が作品に凄味を与える。熟練の筆が冴える「卒婚エンタテインメント」。