この違いには、もちろんすでに兄である秀吉が織田家で「使える男」として知られつつあったことも大きく作用しているでしょうが、秀吉と秀長の父の違いが反映しているのではないでしょうか。秀吉の父弥右衛門は織田家の足軽とされていますが、足軽の多くは領民のアルバイトです。対して、秀長の父竹阿弥の同朋衆は主君の身の回りで雑事をこなす存在です。秀長が織田家に就職しようとしたとき、父の奉公歴で縁故が良かったかもしれません。

豊臣秀長

 ちなみに馬廻り衆は、それなりの体格と身体能力がいります。秀吉は多くの史料に「小柄」とあります。一般的な武士の体格よりも小さかったことは間違いないでしょう。一方、秀長については、体格の情報はありません。「史料に書かれていない」のも実は重要で、もし秀長が小柄な人だったら、「兄弟そろって小さい」といった証言が残されたでしょう。そう考えると、秀長は特筆される体格ではなかったのかもしれません。

 もうひとつ、秀長が厚遇されていたと考えられる理由は、その名乗りです。実は秀長は、はじめ長秀と名乗っているのです。先の『信長公記』の記述から1年後の天正3(1575)年11月11日付の文書で、羽柴小一郎長秀という署名が登場します。ちなみに秀吉は元亀4(1573)年7月20日に、木下から羽柴に姓を改めていました。

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「秀長」への改名に込めた秀吉の戦略

 この「長秀」が非常に重要なのです。というのも、織田家において、信長の「長」を勝手に名乗ることはできません。信長が小一郎に「長」の一字を使うことを許したと考えるのが自然です。もちろん、長秀の「秀」は秀吉の「秀」です。信長の「長」が上で、秀吉の「秀」が下という序列も、この名前には込められている。

磯田道史氏 Ⓒ文藝春秋

 では、いつ長秀は秀長となったのか。これも非常に面白い。時は下って天正12(1584)年9月、小牧長久手の戦いの最中なのです。よく知られるように、この戦いは秀吉と、徳川家康と信長の次男である織田信雄の連合軍との戦いでしたが、ここで初めて「美濃守 秀長」と署名しています。

 この改名には秀吉の明確な意向が込められていると思います。織田家由来の「長」と羽柴家の「秀」を入れ替える。それによって、「もう俺たち(羽柴家)は織田家の下には立たないぞ」と宣言した、と考えられるのです。この直前、秀吉は従一位関白になって信長の官位をこえました。信長は正二位右大臣です。

※磯田道史氏の短期集中連載「秀吉と秀長」(全4回)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています。

文藝春秋

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