その年の人間ドックの結果は
12月16日、20日、25日。あれからどの引き渡し会場に行っても、オレンジ色のアウターを見かけることはなかった。それもそのはずだ。後半三つは、その日が引き渡し初日というわけではなく、私のケーキ消費ペースに合わせて設定した引取日なのである。あの男――コードネーム:オレンジアウターは、そんな、引き渡しが始まって何日も経ったような現場には現れない。私は残り三つのケーキを引き取りながら、勝負は来年か、と独り言ちた。来年は、冷蔵庫内のバトンタッチがスムーズにいくように~等と悠長なことを言っていられないかもしれない。今年のようなぬるいスケジュールを組んでいては、彼との勝負の場にすら立てないのだから。
あなたもホールケーキを引き取りに行くときは、近くに太い柱がないか気をつけて見てみてほしい。その陰から派手な色のアウターをまとった姿が飛び出ていたら――おっと、今はこの辺りまでにしておこう。
と、この話はここで終わらない。
12月29日。私は人生で初めて人間ドックに行った。同世代の友人と、30歳を越えたのだから一度しっかり受けてみたいよね、と、2020年じゅうずっと言い合っていたのだ。予定が合ったのが年末ギリギリだったため、年が替わる直前、やっとフルコースで身体をチェックすることができた。
人間ドックには事前に記入しておく問診票というものがあり、そこでは、日常の酒量や睡眠時間、通勤時間の長さ、喫煙の有無などが問われる。お酒飲まない、毎日7時間寝てる、通勤時間ゼロ、喫煙なし……問診票を埋めていくうち、私は「こいつ絶対健康だろ」と確信し、突如大金を払うことがバカバカしくなったりしたのだが、これも経験だということで記入を続けた。
実際、人生初の胃カメラのあとに、「ご覧の通りめちゃくちゃきれいなので、あと三年くらい来ていただかなくて大丈夫ですよ」とやんわり邪魔者扱いされたりしながら、私は検査を順調にこなしていった。そして、採血の結果をもとに医師が面談をしてくれるという、最後のパートに辿り着いた。
「えー、そうですね、胃カメラも尿検査も心電図も特に問題ないのですが」
女性の医師はカルテをぱらぱらとめくりながら、
「コレステロール値が異常に高いんですよね」
と言った。異常に、というところに、グッと力がこもっていた。
「問診票によると飲酒はされないようですよね。喫煙もしない、他の項目も問題はなさそうで……最近の食生活はどんな感じですか? 正直かなり高めの数値なので、再検査になると思いますが」
「えー、と」
私は、ここ最近の食生活を思い出した。
「甘いものが好きなので、その影響かもしれないです」
「なるほど。毎日とか、そういう頻度で食べる感じですか?」
「あ、でもさすがに毎日ではないです」私はケーキの引き取りの間に胃の休息日を設けていたことを思い出す。
「そうですか。ここ最近もですか?」
「そうですね。年末ですし、はい」
なるほどね、と、医者の顔に納得が広がる。
「血液検査は直前に食べたもので結果が変動したりもするんですが、最近特に羽目を外した感じだったりします?」
医者は、そのコレステロール値が一時的なものであると思いたいようだった。さすがにこの数値を記録するような食生活が日常ではないですよね、という心の内が見て取れたので、私は医者を安心させるためにもこう続けた。
「そうですね、最近はクリスマスケーキを5つとか食べてしまって」
「それはちょっと食べ過ぎですね。そういうのもあってのこの数値かもしれないので」
「そうですよね、ホールでしたし」
そのときの医者の顔を、私は忘れられない。ホールで5つ? という声なき声が瞳いっぱいに満ちており、そこに映る私の呆け顔含めて、非常に印象深い表情であった。
≪バカッ! 何ほんとのこと言ってるんだ!≫
あ、神! おひさ~。
≪何でみすみす誘導尋問に引っかかってるんだって言ってるの!≫
だって明らかに一時的な数値だと思いたい感じだったから……協力してあげようかなと。
≪そんな正直に話したら、甘いもの控えろって言われるに決まってるでしょ!≫
でも嘘ついて日常的な数値だと思われるほうがまずいんじゃないの?
≪もういいよ、君には呆れた。その医師の話をちゃんと聞くがいいよ――……≫
「それは明らかに食べ過ぎです。特に洋菓子は脂肪分が多いので、できるだけ控えてください」
医師は淡々と面談を続けてくれたが、“ホールで5つ? 嘘だろ?”という感情が顔面にべったりと残っていた。一方で私は堂々としていた。だって私は、嘘はついていない。事前に提出する問診票には酒、タバコ、通勤時間、睡眠時間などの記入欄があったが、ホールケーキの摂取数を申告する欄はなかった。私はお酒もタバコもやらないし、通勤時間もゼロなので毎日ぐっすり眠っています。だけどホールケーキを19日間で5つ食べました。
「詳しい結果は一ヶ月ほどで郵送されますが、三ヶ月後、再検査にいらしてください」
私は「わかりました」と頷きながら、一緒に人間ドックに来た友人とこのあと行こうと約束しているパンケーキ屋のことを考えていた。12月の限定メニューが、あと数日で終売となってしまうのだ。クリスマスケーキのシーズンが終わった今、各チェーン店などの新作を楽しみにする生活に戻るしかないのだから、これは仕方がないことなのである。
とか言っていたら、一ヶ月後、思い切り「脂質異常症」と印字された通知が届いた。その日以来私は、スイーツの神様に出会えていない。『魔女の宅急便』で成長を遂げたキキがジジと話せなくなったように、脂質異常症になった人間にスイーツの神様はもう降りてこないのだった。
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