男が語った「冷遇への恨み」

 供述によれば、当初は仁左衛門の見習いとして劇場に出入りし、台本の整理や台詞の作製などを担当、家でも円満に過ごしていたそうだ。しかし、そのころは極めて貧しい時代。かつて大邸宅、愛人、別荘、自家用車などを所有していた歌舞伎の大役者も没落し、市川猿之助(初代市川猿翁。1888-1963)が自転車で楽屋に入り、八代目坂東三津五郎(1906-1975)が満員電車で劇場に通っていた。仁左衛門一家も例外ではなく、登志子さんは配給制の米を容器に入れ、鍵をかけて保管していたという。

 同家では、主人一家と使用人とは食事と炊事は別々だった。当然、使用人に割り当てられる米の量は少ない。飯田はこの食に関する不平不満から登志子夫人との間に溝ができ、1945年末から翌年1月にかけて関西旅行に出た際、外食券(戦後の米の統制下において、外食する者のために発行された食券。1969年廃止)の送付を約束していたにもかかわらず、それを反故にされたため怒りを募らせた。

 帰京後、状況はさらに悪化する。夫人は飯田に減食を申し渡し、炊事用として1人あたり1日1合3勺のみを与えた。これは朝に水のような雑炊、夜に盛ったご飯の2食がせいぜいの量で、摂取カロリーにして120~130。飯田の年齢を考えれば、1日に最低限1千500~1千600カロリーは必要で、このことから栄養失調寸前の状態だったと思われる。

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 空腹の飯田は蓄えていた金を手に闇市で食料を買った。が、その金もすぐに使い果たし、同情した近所の人からご飯を食べさせてもらったこともあるという。対して、夫人は「外聞が悪い」と叱責したそうだ。