うーむ、決して予算は潤沢ではないけど、責任を持って看護婦としての技術を磨いて世のため人のために献身して欲しいということか。これは、明治維新によって士族としてのプライドを失い、“夫に捨てられた女”としてのプライドも失った和の福音になるのも当然だ。
でも、よく読むとなんだかおかしい。なぜなら、この人「人を健全にするには信仰ある看護婦がなければならぬ」と言い切っているのである。
看護教育ではなく“布教プロジェクト”
そう、この学校「あなたたちに施しているのは、ただの看護教育の話ではない。布教プロジェクトなんだ」と言いきっているわけである。ようは、信仰ある看護婦を日本中に送り込むことで、キリスト教の変種である、アメリカ改革派プロテスタントの価値観を広げていくというもの。それも、献身とか色んな言葉を使ってはいるが、病床という最も無防備な場所から日本社会に浸透させていく野望ともみえる。
ソフトパワーという言葉がある。軍隊でも経済制裁でもなく、文化や価値観で相手国を動かす戦略だ。現代ではX(旧Twitter)やInstagram、YouTubeやNetflixがその役割を担っている。ようは、和が邁進したのは、それの明治版だったというわけである。……まあ、結果としてその帝国主義的な野望はともかく、看護婦という職業が普及していったのだから、よしとしよう。
こうして看護婦になった和だが、その信仰心ゆえなのか、とにかく献身的な看護を行っている。いや、献身的というより、無謀である。
和は、現場でのエピソードを次のように記している。
カテーテルを患者に突っ込み、口で吸った
ある時ジフテリアの患者がありまして、私が他の病室に行って居る間に窒息してしまいました。私は急いで医局を起こしますと、物に動ぜぬ先生方とて、落付払って帯を締め、紋付きの羽織を召すと云う有様で、とてもそれを待っては居られませんから、直に病室に取ってかえし、床頭のネラトン氏カテーテルの先を切り、突如挟管口に突込んで吸い出しましたが、一度は効なく二度目に吸って、カテーテルをぬくと、一寸三分位の疑膜(偽膜)が飛び出して蘇生しましたが、其時副院長と助手が見えて、助手は「吸い出したのか、大胆だなあ」と驚いて居られました。