それでもヤクザは無くならない理由
警察がヤクザを取り締まるのは分かる。一般人がヤクザを怖がり、嫌うのも分かる。ただ彼らアウトローの存在は人間の歴史そのものと表現しても言い過ぎではない。世界に目を広げてみる。国によってはマフィア、ギャングといった名称で呼ばれている。人類の歴史が始まって以来、名称・形態を変えて存在し続けてきた。
アウトローを文化的側面から考察すると、ヤクザは芸能など興行の世界に、それこそ江戸時代からつながっている。現在も芸能界などの興行の世界と結びつきは厳然として、ある。『仁義なき戦い』や『ゴッドファーザー』など、ヤクザ・アウトローをテーマにした映画、小説、ドラマ、漫画がなぜここまで定着しヒットしてきたのか。
日本人いや、人の心のどこかにアウトローに対して惹かれる部分があるのだと思う。そういったこともあってヤクザ人口は数字の上では減少したとは言え、日本におけるアウトローのピラミッドは崩れない。
例えば我々を楽しませてくれる芸能の世界は、アウトローたちの行き場であるというとらえ方もある。芸能人とアウトロー・ヤクザには親和性がある。
暴排条例施行以前の時代では、あからさまに芸能界とヤクザとのつながりが雑誌記事、タレント本に書かれていた。暴排条例の影響が多大だとは思うが、現在は結びつきが薄くはなっている。
しかし、無くなりはしないだろう。繰り返すが芸能界とヤクザには親和性があり、日本人がアウトローをエンタメ化・芸能化した作品を求めているからだ。
取り締まり対象増の悪循環
暴排条例によって警察組織の暴力団対策課はヤクザだけを取り締まっていればよかったのに、さらに半グレという、もう一つのスキームを取り締まらなければならなくなった。ターゲットが増えてしまったのである。
そして、現在はトクリュウという名前をつけており、これも繰り返しになるが匿名・流動型犯罪という「形態」を意味していたのにいつの間にか犯罪集団を指していることになった。警察行政は自分たち自身が作った条例に振り回されているのではないか。
行政が難しいのは、法制だけで社会の道理が成り立つ訳ではないということだ。お役所に求めるのは無理だとは思うが歴史的・文化的観点をもって、法律・条例を立法、施行しなければならなかったのでは、と思う。
一つ言える点がある。こういう言い方は賛否両論あるだろうが、ヤクザの存在を敢えて表現すれば必要悪。「そこにあるもの」なのである。警察行政は歴史的視点を持ってほしい。メディア有識者たちがかつて言っていたような「彼らを全部悪いと断定しない」といった姿勢が必要ではないだろうか。でないと、犯罪がますます複雑化して取り締まりにくくなっていくと思われる。近年のトクリュウ犯罪の顕在化を見れば自明だろう。
暴排条例で「消えた8万人」のヤクザはどこへ行ったのか、オレオレ詐欺に手を出すヤクザたち、伝説の右翼が語るヤクザのいま……。その全貌は、朝日新書『教養としての新宿・歌舞伎町』(朝日新書)で。
