『異常に非ず』(桜木紫乃 著)

 実在の事件を小説にするのは難しい。その事件の衝撃度が大きいほど、物語は事実のコピーという底なし沼に引きずり込まれる。

 1979年1月、銃器で武装した30歳の無職、梅川昭美が大阪市内の三菱銀行北畠支店に押し入り、客と行員計約40人を人質に取って籠城した。梅川は一切のためらいなく、警察官と行員計4人を射殺。女性行員を全裸にして警察の狙撃から身を守る盾とし、さらに同僚の行員に命じ、梅川に撃たれて重傷を負っていた行員の片耳を切除させるなど、筆舌に尽くし難い蛮行を繰り返した。発生から42時間後、突入した警察官が梅川を射殺し、惨劇の幕が下りた。

 桜木さんは、この犯罪史に残る「三菱銀行人質事件」に挑み、見事に虚実の歯車を噛み合わせた。秀逸なのは、ベースとなる「実」を二段構えで用意したことだ。一段目が梅川昭美の人生で、二段目は毎日新聞社会部が梅川の生きた足跡を追ったノンフィクション作品『破滅』(幻冬舎アウトロー文庫)である。作中ではそれぞれ、花川清史、毎報新聞の『異常に非ず』と名を変えるが、史実を忠実に再現している。

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 一方で「虚」のパートを担うのが、視点人物となる3人――花川の母カヨ、元恋人の亜紀、書籍『異常に非ず』の取材を続ける毎報新聞記者の将志だ。取材対象者と執筆者。花川の人生を追う本が完成したとき、3人が迎える結末とは――。

 10歳で女郎屋に売られ、流転の人生を歩んだカヨの情念は、桜木さんの筆によって歪な形に象られていく。42歳で産んだ子へ注ぐ愛は、独善的で宗教的ですらある。幼い息子を頻繁に病院へ連れて行く彼女は看護師に忠告される。「おかあさんがあんまり心配すると、親に心配させる子に育ってしまうもんだから」。事実、花川は15歳で強盗殺人を犯すなど、最後まで母に安らぎを与えなかった。

 花川と同郷の亜紀は家族との縁に恵まれず、水商売で生きるしかなかった。同じ職場で働いていた彼と結ばれたものの、華やいだ季節はすぐに過ぎ去った。男からの暴力と支配で人生が暗転する。そして花川を介してつながったカヨと亜紀は、孤独を磁場に“親子”として関係を深めていく。

 北海道から大阪社会部に異動してきた将志は、地元に関係の冷え込んだ妻を残す。花川と同い年の将志は、対照的なエリート街道を突き進んできた。粘り強い取材で、花川を凶行へ駆り立てた正体に近づく将志。それは、遠くにある「異常」などではなかった。

 将志を温かく見守る上司の近藤記者が名脇役だ。彼は取材を通して亜紀の人生にも影響を与える。近藤は言う。「真実を伝えるときには、データだけやのうて『虚』も必要なんや」「延々と事実を並べ立てた先に、(真実は)あるんやろなあ」。

 事件が「事実」を示せば、小説は「真実」を映し出す。読書家を唸らせる、重厚で複雑な傑作だ。

さくらぎしの/1965年、北海道生まれ。2013年『ラブレス』で島清恋愛文学賞、同年『ホテルローヤル』で直木賞、20年『家族じまい』で中央公論文芸賞を受賞。他の著書に『緋の河』『孤蝶の城』『ヒロイン』『谷から来た女』『人生劇場』など多数。

しおたたけし/1979年生まれ。『罪の声』で山田風太郎賞、『歪んだ波紋』で吉川英治文学新人賞、『存在のすべてを』で渡辺淳一文学賞。

異常に非ず

桜木 紫乃

新潮社

2026年4月22日 発売